北の湖理事長 負けた相手に手を差し伸べなかった理由とは…

[ 2015年11月21日 08:40 ]

73年の5月場所、輪島(左)を寄り切り3度目の全勝優勝を果たす北の湖

北の湖理事長死去

 元横綱の北の湖理事長は、当時は認められた13歳で三保ケ関部屋に入門し、人生の全てを相撲道にささげた。両国中に通いながら中学生のうちに幕下に上がった。北の湖を筆頭に同じ昭和28年生まれの横綱・2代目若乃花、関脇・麒麟児、小結・大錦、関脇・金城と「花のニッパチ組」と言われ、一大旋風を巻き起こした。大鵬や北の富士が土俵を去った後の相撲界を盛り上げた。

 北の湖は貴乃花(元横綱)でも破ることのできなかった21歳2カ月という横綱の最年少記録(昭和以降)を今でも持っている。立ち合いからの強烈な当たりに左四つになってから厳しい寄り身で、歴代5位の24度の優勝を飾った。

 ライバルには「輪湖時代」と言われた輪島や角界のプリンスと言われた大関・貴ノ花がおり、ふてぶてしい勝ちっぷりから「憎らしいほど強い」と常に悪役に回っていた。特に日大から鳴り物入りでプロ入りした天才肌の輪島とは好勝負を繰り広げた。「輪島さんがいたからこそ私も頑張れた。横綱で並んでからは、毎場所初日の前日になると、対戦をイメージしたほどだ」と述懐したように、対戦成績は21勝23敗でほぼ互角。輪島・北の湖両横綱による千秋楽相星決戦が4度(76年1月、同11月、77年1月、同11月)あり、実力は伯仲していた。

 「横綱は常に強くなくてはいけない」という北の湖だったからこそ、在位は史上最長の63場所を記録。負けた相手には一度も手を差し伸べなかったが、それは「相手に失礼。同情をかけられたようでかわいそうでしょう」との信念からだった。

 81年1月の初場所で千代の富士との優勝決定戦で敗れた。初めての休場となった81年11月の九州場所以降は、膝や腰の故障でなかなか成績が伸びなかったが、常に角界を引っ張る存在であり続けた。「横綱を10年以上も張ったのは長い大相撲の歴史で私1人。これは自慢だよ」。両国国技館が新しくなった85年初場所にケガを押して出場したが結局2日目に敗れて引退した。春日野理事長(元横綱・栃錦)が引退したときに「桜の花が散るごとく」と話していたが、無敵の北の湖も最後はケガに勝てずに散り際は潔かった。

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