世界殿堂入りの坂田氏「日本ラグビーの礎築いた大西監督の命日に…」

[ 2015年9月21日 07:35 ]

日本ラグビー協会副会長の坂田好弘氏

ラグビーW杯イングランド大会 1次リーグB組 日本34―32南アフリカ

(9月19日 ブライトン)
 ラグビーW杯史上最大の番狂わせを起こした日本代表。12年にアジア初の世界ラグビー殿堂入りした坂田好弘氏(72=日本ラグビー協会副会長)は本紙に観戦記を寄稿した。

 歴史的勝利はたまたま訪れたものではありません。日本は勝つための準備をしっかりとし、逆に相手がやりたいことをやらせなかった。勝つべくして勝ちました。守りの勝利と言っても過言ではないでしょう。ポイントは最初の5分。ゴールライン寸前まで攻め込まれながら度重なるターンオーバーでピンチを脱しました。これで流れに乗りました。

 タックルも素晴らしかった。2人1組で下半身、上半身に分かれて屈強な南ア選手の突破を止めました。試合中に「俺が上、おまえが下」と声を掛けてタックルするのは不可能。あうんの呼吸は練習量の裏付けがあるからこそ可能なのです。南アはフィジカルの強さを生かした攻撃が持ち味ですが、日本の上下に入るダブルタックルにより、すぐに選手が倒れてラック形成を余儀なくされました。これで攻撃のリズムが遅くなりました。

 日本は倒れてもすぐに立ち上がり、数的不利にならなかったのも接戦に持ち込めた要因です。奪われた4トライのうちの2つが個の力でやられましたが、豊富な運動量で優勝2回の強豪に最後まで形をつくらせませんでした。外国出身者を交えて徹底的に鍛えれば、列強相手に戦えることを証明しました。

 ジョーンズHCはこの一戦に勝負を懸けていたのでしょう。4月からの5カ月間で130日もの代表合宿を行いました。8月の代表合宿では、この日のフランス人主審を日本に招くという異例の対策を取りました。審判の癖を知ったことは本番に役立ったはずです。これで失敗したら19年に向けて策は残されているのだろうかと思えるほどの態勢で臨み、そして勝った。お見事です。

 日本の金星として語り継がれる試合に、68年のオールブラックスジュニア(23歳以下)との一戦があります。私は4トライを挙げ、23―19の勝利に貢献しました。この試合も守りが光りました。浅いラインで素早くプレッシャーをかける、“シャローディフェンス”で大きな相手を封じたのです。今のジャパンも鋭い出足の守りが長所。我々が指導を受けた大西鉄之祐監督の教えは現代にも通じるのです。

 日本ラグビーの礎を築いた大西監督とジョーンズHCはよく似たタイプの指導者です。その心は周囲に惑わされず、計画的なチームづくりをする点にあります。ジョーンズHCの就任当初に印象的なことがありました。強化方針を尋ねると「年ごとに強化ポイントを定める」と答えました。その通りに体づくり、運動量アップ、スクラム強化、実戦経験と順を追って鍛えた印象を受けます。大西監督も目標から逆算してチームをつくりました。約束事や戦術を選手に徹底させる点も、2人の共通項でしょう。

 南アに勝利した9月19日は、95年に亡くなった大西監督の命日。“日本ラグビーが変わるときだ”と天国からの声が聞こえた気がしました。運命を感じずにはいられません。(日本ラグビー協会副会長、関西ラグビー協会会長)

 ▼坂田 好弘(さかた・よしひろ)1942年(昭17)9月26日、大阪市生まれの72歳。洛北高―同大―近鉄。WTB。68年の日本代表のニュージーランド遠征の活躍で「空飛ぶウイング」と称賛された。その翌年にニュージーランドへ留学。トライを量産し、カンタベリー州代表、ニュージーランド学生選抜に選ばれ、オールブラックス入りにも近づいた。12年にアジア初のIRB(現WR)のラグビー殿堂入り。12年シーズンをもって36年間指導した大体大の監督を勇退。現職は日本協会副会長、関西協会会長。

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