上田昭夫さん急死 ラグビー慶大監督で日本一、キャスターでも活躍

[ 2015年7月24日 05:30 ]

難病アミロイドーシスで7月23日に急死した上田昭夫さん

 ラグビー元日本代表SHで、指導者として母校の慶大を大学日本一に2度導いた上田昭夫(うえだ・あきお)氏が23日午前7時39分、難病のアミロイドーシスのため、東京都内の自宅で死去した。62歳だった。84年に31歳の若さで慶大監督に就任し、日本ラグビーのルーツ校を85年度の日本選手権初優勝に導いたほか、総監督を務めていた99年度の大学選手権では創部100周年を飾る優勝。フジテレビのキャスターとしても活躍した、知性派の名将だった。

 上田氏は、フジテレビを定年退社した後の13年頃から体調を崩しがちだったという。慶大が大学日本一に輝いた99年度、上田総監督の下でヘッドコーチを務めた林雅人氏(元慶大監督、現東京ガスヘッドコーチ)によると「昨年の9、10月頃に手術をして、その後も入退院を繰り返していた」そうで、今年に入って代謝性疾患のアミロイドーシスと診断されていた。親しい関係者にも詳しい病名は明かさず、見舞い客もなるべく断り、自身のブログを最後に更新した6月30日には「先週の木曜日(同25日)から体調が良くなく…。気温の変化に体が対応できない」とつづっていた。

 慶大2年時にSOからSHへ転向し、1メートル60と小柄ながら強気のプレーで鳴らした。卒業後は東京海上火災保険(現東京海上日動火災保険)へ入社も、日本代表選出を機に“ラグビー優先”でトヨタ自工(現トヨタ自動車)へ移ってプレーを続けた。評価を高めたのは84年に慶大監督に就任してからで、85年度には大学選手権決勝で明大と引き分け両校優勝ながら抽選で日本選手権へ進出。自身が勤務するトヨタ自動車との対戦だったが、財布から社員証を抜いて決戦に臨み、社会人王者を18―13と破って母校を初の日本一へ導いた。

 94年には低迷を続けていた慶大に総監督として現場復帰。従来のチームは付属校出身選手が主体だったが、他の強豪校に対抗するため全国の有力高校生に自ら手紙を書いて勧誘に当たった。食事やトレーニング、スタッフの待遇なども見直し、創部100周年の99年度には15年ぶりに関東大学対抗戦を制覇。大学選手権決勝では関東学院大の3連覇を阻み、14季ぶりに学生日本一に輝いた。

 最初に慶大監督を退任した後の87年には“一芸入社”でフジテレビに入社。「スーパータイム」などでメーンキャスターを務め、分かりやすい話しぶりでお茶の間の人気を集めた。近年はテレビ解説のほか、東京・秩父宮ラグビー場内のFM放送で試合の見どころを伝えるなど競技の普及にも力を注いでいた。日本で初開催される19年W杯のPRイベントでもアイデアを次々と披露していた「ラグビー界の顔」は、4年後の大舞台を見ることなく帰らぬ人となった。

 ◆上田 昭夫(うえだ・あきお)1952年(昭27)10月21日生まれ、東京都出身。慶応幼稚舎(小学校)5年からラグビーを始め、主にSH。慶応高―慶大と進み、大学4年時には主将を務めた。75年に東京海上火災保険に入社し、同年9月のウェールズ戦(国立)で代表デビューするなど日本代表通算6キャップ。同社を半年で退職してトヨタ自工へ転職し、77年度の日本選手権制覇に貢献した。84年、慶大監督に就任して85年度に日本選手権優勝。87年にフジテレビに入社し、報道番組のキャスターを歴任した。94年から慶大総監督を務め、99年度に大学選手権優勝。12年10月にフジテレビを定年退職。現役時代は1メートル60、60キロ。

 ▽アミロイドーシス アミロイドと呼ばれる線維状の異常タンパク質がさまざまな臓器に付着し、障害を引き起こす難病で、日本では特定疾患に指定されている。複数の臓器に付着する全身性アミロイドーシスと、一つの臓器に沈着する限局性アミロイドーシスに大別される。遺伝性と非遺伝性のものがあり、非遺伝性の患者は国内に数千から数万人いるとされる。主な症状は臓器の機能障害で、リウマチ患者の合併症としても知られる。

続きを表示

この記事のフォト

2015年7月24日のニュース