【貴ノ浪を悼む】「浪岡くん」2代目育てる姿見たかった

[ 2015年6月21日 08:45 ]

03年、名古屋場所でライバルの武蔵丸を破る

 音羽山親方のことは「浪岡くん」と呼ばせてもらっている。私が浪岡くんと初めて会ったのは89年9月の秋場所前、当時の藤島部屋を取材していたときだ。人なつっこい顔で、稽古場に響くほど大きな声でばか騒ぎしてみんなを笑わせていた陽気な姿が忘れられない。

 一時、担当から外れ、13年に私が相撲担当に復帰したとき、浪岡くんも記者クラブ担当の親方となった。久しぶりに再会したことで一緒に飲みに行くこともしばしば。その時に出るのは今の力士の話だ。人気力士の遠藤は「ディフェンシブの型だよね」と相手の攻撃のいいところを消しながら動いていく天才と褒めていた。大関に昇進した照ノ富士には「俺のところにきたらすぐに大関にしてやるよ」と自分と同じ取り口の才能を買っていた。

 「自分の相撲はみんないろいろ言うけれど、自分の中には理論がある」と話していたことがある。肩越しからの両まわしを取って振り回す相撲は基本に忠実とは言えないが、足腰が強いからできたこと。師匠の二子山親方(元大関・貴ノ花)も最初は注意したが、十両昇進したころから何も言わなくなった。自分の好きにさせてくれた師匠に「俺は貴ノ花の弟子」と感謝していた。若貴と同じ時代にいなければ、必ず横綱になっていたはず。「相撲が好きなんだ」と語っていた浪岡くんが2代目・貴ノ浪を育てる姿を見たかった。43歳なんて早すぎる。(元相撲担当、大阪報道部デスク・仁木 弘一)

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