レジェンドおいの妻・節子さん 錦織にエール「100年に一人の選手」

[ 2015年6月2日 05:30 ]

海外遠征での記念写真。佐藤次郎は左端(佐藤家提供)

 1933年の佐藤次郎以来となる日本男子82年ぶりの全仏ベスト8に進出した錦織にエールを送ったのは、佐藤次郎のおいで14年8月に亡くなった忍さん(享年87)の妻・節子さん(81)だ。群馬県渋川市の自宅で全仏8強のニュースを知り「82年ぶりは凄いですよね。(前回は)昭和の初めですよ。100年に一人の選手ですね」と喜んだ。節子さんは次郎の兄で義父にあたる太郎さん(故人)らから日本テニス界のレジェンドのことを伝え聞いてきたという。

 錦織が14年全米オープンで破るまで次郎の4大大会32勝は日本男子最多。識者が選んだ当時の世界ランクで日本人最高の3位を記録した1933年は全仏で4強入りするなど全盛期を迎え、四角張った風貌から「ブルドッグ・サトウ」と呼ばれた。そんな次郎が渋川市に生まれたのは1908年で、小学校に入学すると兄・太郎さんとともにテニスに取り組んだ。板を削ったものをラケット代わりに自宅の蔵に向かって壁打ち。渋川中学(現渋川高校)ではローラーでコートをつくった。

 やがて世界トップへの道を駆け上がった次郎だが、日の丸を背負う重圧などから心身両面で不調をきたすようになっていた。34年の国別対抗戦デビス杯の代表に選出され、悲劇が起きた。「船に乗る前から下痢で降ろしてくれと言っていた。しかし、断るとテニス協会に出資していた財閥からの援助がなくなることも分かっていた。だから死ぬ覚悟で船に乗ったそうです」。その遠征中、マラッカ海峡に投身自殺し、26歳で生涯を閉じた。日の丸のついた白いブレザーを着ていたという。

 「円谷さん(男子マラソンの64年東京五輪銅メダリストで68年1月に自殺)もそうですが、日の丸で良い成績を取れないと、申し訳ないという気持ちがあったのだと思います」と節子さん。国を背負う重圧、責任がよほど重かったのだろう。

 佐藤家は都内や群馬県内で林業を営み、節子さんは次郎が生まれ育った渋川市から錦織を見守っている。「錦織選手が活躍して次郎さんもクローズアップされて喜んでいると思います。錦織選手にも頑張ってもらいたいです」と声を弾ませた。

 ◆佐藤 次郎(さとう・じろう)1908年(明41)1月5日、群馬県渋川市生まれ。早大卒。30年に全日本選手権を22歳で制し、その後は世界を転戦。4大大会で5度、4強入り。33年には世界ランク3位に入った。国別対抗戦のデビス杯には31~33年に出場。33年のオーストラリア戦では同年世界ランク1位で、4大大会で7大会連続決勝進出のジャック・クロフォードを破った。34年4月、デ杯遠征中にマラッカ海峡に投身自殺。26歳だった。1メートル68。

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