義足アスリート中西「私がヒロインに」東京パラリンピックあと6年

[ 2014年8月25日 08:15 ]

義足を手にポーズをとる中西

 夢舞台は五輪だけじゃない。20年東京パラリンピック開幕まで25日でちょうど6年。TOKYOを見据え、08年北京、12年ロンドン・パラリンピック陸上女子日本代表の中西麻耶(29=大分陸協)は日々、自己と向き合い、汗を流している。21歳の時に勤務中の事故で右膝下を切断。ロンドン・パラリンピックを終えて現役引退を表明したが、13年に競技に復帰した。走り幅跳びの世界記録更新を目指している義足アスリートに迫る。

 痛みを感じたのは一瞬だった。すぐに焼けるような熱さが襲ってきた。勤務していた塗装業の建設現場。荷崩れした鉄骨に右膝から下が押しつぶされた。泣いたのか、叫んだのか覚えていない。事故に巻き込まれた男性の苦しむ声が、耳に残っている。自称「雨女」の中西だが、晴れ渡った、蒸し暑い一日だった。

 06年9月14日。世界が変わった。

 職場近くの病院で手の施しようがなく、大きな病院へ搬送された。提示された選択肢は「切断」か、「時間をかけても神経をつなぐ」か。中西は前者を選ぶ。重大な決断に要した時間は3秒。反対する家族を説き伏せ、手術台に乗った。神経をつなげば、今までのように右足で体重を支えることは難しい。それは、中西にとってスポーツとの決別と同義だった。

 小さな頃から体を動かすことが大好きだった。「スポーツができなくなるのは、絶対に嫌」。大分・明豊高時代は軟式テニスで全国高校総体などに出場。08年大分国体を、競技者として集大成の舞台にするはずだった。「リハビリして、復帰して、大分国体に間に合うかな」。下半身麻酔の手術中、クリアな頭でそんなことを考えていた。

 義足生活が始まると現実に直面。「つえが生えているような感覚。歩くってなんだろう」。テニス用の義足も存在しない。インターネットで調べ、スポーツ義足製作の第一人者・臼井二美男氏と連絡を取った。07年3月、一緒に障害者の陸上大会を観戦。その場で臼井氏が義足を調整すると、歩きやすくなった。「この人に作ってもらえば、テニスができるかも!」。道は開けたはずだった。

 だが、健常者と向かい合ったテニスコートには違和感があった。中西が返せるボールばかり打ってくれているような気がした。「手加減されてる感が満載で。周りに気を使わせるのもなあ」。ラケットを握る回数は激減した。それまで陸上に興味はなかったが、「気晴らしにやってみよう」と考えるようになった。

 負けず嫌いで、やると決めたら突っ走る。驚異のスピードで陸上界のトップに躍り出た。07年10月に100&200メートルで日本新記録を樹立。「障害を負ってすぐのタイミングで、あれだけの大会に出られたのは良かった」と言う08年北京パラリンピック。女子100メートル予選を通過し、決勝で6位に入った。

 レースが行われたのは08年9月14日。世界は変わっていた。

 競技生活は順調だったが、心に闇を抱えていたこともある。現状に満足せず、常に進化したい。それはアスリートにとって当然の考えだが、周囲の一部は違った。「障害者だから頑張らなくていいって人もいた。でも、障害者だって頑張らないといけない時、あるじゃないですか」。環境を変えるため北京後、新天地を米国に求めた。

 そこで見たのは日本とは違う光景だった。義足で街を歩くと、道行く人が「格好いい足だね!」と気さくに声をかけてくれた。オリンピアンとパラリンピアンが練習をともにし、切磋琢磨(せっさたくま)し、互いにリスペクトする。障害の有無にかかわらず、プロのアスリートとして、スポンサー獲得に全力を尽くす。自由の風に吹かれて中西は決めた。私もプロになる、と。

 年間活動資金は最低500万円。だが、スポンサーは思うように集まらず、ロンドンまでの4年は競技だけに集中できなかった。午前7時から寿司店で8時間働き、練習し、午後5時から深夜3時まで焼き肉店で働いたこともある。12年3月には資金捻出のため自身の肉体と障害をさらけ出したカレンダーを発売したが、待っていたのは「障害を売りにするな」というバッシングの嵐。心身ともに限界に達し、ロンドン後、引退を決めた。

 趣味で戻ったテニスコートには、数年前と同様に違和感があった。今度は周囲にではなく、自分に対して。「逃げたくないって思ったし、今後、私みたいな感じの子が入った時に苦労してほしくない」。13年3月に現役続行を表明し、9月に20年パラリンピックの開催地が東京に決定。16年リオデジャネイロの先に、明確な目標が定まった。今は国内2企業の支援を受け、以前よりは競技に集中できている。

 スプリントから走り幅跳びに主戦場を移し、13年10月には非公認だったが、佐藤真海が持つ日本記録(5メートル2)を上回る5メートル18をマーク。「5メートル43の世界記録を更新し、6メートルを跳ぶ」。6年後、中西は35歳になる。言葉に自信が宿るのは、課題と伸びしろを自覚しているから。「年齢も障害も関係なく、こんなにやれるんだぜってのを見せたい」。そして、続けた。「東京で、私がヒロインになってやる」――。

 ◆中西 麻耶(なかにし・まや)1985年(昭60)6月3日生まれ29歳。大分県由布市出身。右膝下を切断するまで軟式テニスで活躍。08年北京パラリンピックは陸上女子100メートル6位、200メートル4位。12年ロンドン・パラリンピックは100、200メートルで予選落ち、走り幅跳びで8位。1メートル58、50キロ。

 ▼20年東京パラリンピック 20年8月25日から9月6日まで開催される。開閉会式は新国立競技場で行われ、同競技場で陸上、五輪水泳センターで競泳、東京体育館で卓球、日本武道館で柔道など東京五輪と同じ会場を使用する。

続きを表示

この記事のフォト

2014年8月25日のニュース