元大関・魁傑が急死 66歳…八百長角界を浄化「クリーン魁傑」

[ 2014年5月19日 05:30 ]

74年の九州場所で初優勝し、賜杯を持つ魁傑

 大相撲の元大関・魁傑で、放駒親方として日本相撲協会の理事長を務めた西森輝門(にしもり・てるゆき)氏が18日午後3時21分、急死した。66歳だった。西森氏は西東京市のゴルフ練習場で急に気分が悪くなって倒れ、緊急搬送された都内の病院で死亡が確認された。現役時代は「クリーン魁傑」と呼ばれ、引退後は理事長として八百長問題の事態収拾などに尽力。昨年2月に定年退職したばかりで、早すぎる死となった。

 部屋関係者によると、西森氏は昼食を取った後に杉並区の自宅から長男・大祐さん(39=会社員)と孫の3人で西東京市田無のゴルフ練習場に出掛けた。午後2時すぎ、練習中に突然、具合が悪くなって転倒。救急車を呼んだが到着前に心肺停止状態になったという。

 懸命な蘇生措置が施されたが、都内の病院で午後3時21分に死亡が確認された。突然の訃報だけに、西森氏の家族は「病院から帰ってきて、対応に追われて、いっぱいいっぱいです」と混乱しているという。死因は不明で、19日に検視が行われる。

 柔道選手として活躍した西森氏は、日大時代に故花籠親方(元幕内・大ノ海)にスカウトされ66年に角界入りした。71年の秋場所で新入幕を果たし、輪島(元横綱)、貴ノ花(元大関)と並び注目を集めた。「黒いダイヤ」や朴とつな人柄から「クリーン魁傑」などの愛称で親しまれ、2度も大関に昇進するなど努力の人としても知られた。

 引退後は放駒親方として花籠部屋から独立して部屋を起こし、横綱・大乃国(現芝田山親方)らを育てた。10年8月には野球賭博問題で辞任した武蔵川理事長(元横綱・三重ノ海)の後を受けて急きょ第11代日本相撲協会理事長に就任。11年2月に発覚した八百長問題では親方衆の猛反対を押し切り25人の親方、力士に引退などの処分を断行した。

 足を止めず組織改革や年寄名跡問題にも着手し、公益財団法人認定への道筋をつけた。「休場は試合放棄」と現役時代は一度も休場しなかったが、一昨年1月に理事長を退くまで相撲協会でも走り続けた。昨年2月の定年退職に伴って放駒部屋は閉鎖。第二の人生を楽しもうとしていた矢先に帰らぬ人となった。

 北の湖理事長(元横綱)は「現役時代は二本差しがうまくてしぶとい相撲だった。2度も大関に上がるなど頭が下がる人でした。心からお悔やみを申し上げます」と悼んだ。今年1月に新公益財団法人として新たなスタートを切った相撲協会は、功労者の早すぎる死に驚くしかなかった。 

 ◆西森 輝門(にしもり・てるゆき)1948年(昭23)2月16日、山口県岩国市生まれ。日大1年で中退し、66年秋場所で初土俵。74年九州場所で幕内初優勝。75年初場所後に大関に昇進した。在位5場所で陥落したが、77年初場所後に再び大関に昇進した。幕内優勝は2回。三賞は殊勲賞2回、敢闘賞10回、技能賞1回。81年に花籠部屋から独立。79年1月の引退後はしばらく審判委員として活躍。巡業部長などを歴任し、11年に理事長就任。13年2月15日に定年退職した。

続きを表示

この記事のフォト

2014年5月19日のニュース