藤原 11年越し世界陸上出場の夢へ 日本人最高4位

[ 2013年3月4日 06:00 ]

2時間8分51秒の4位でゴールする藤原正和

スポニチ後援 びわ湖毎日マラソン

(3月3日 皇子山陸上競技場発着の42・195キロ、スタート時の天候=曇り、気温6・3度、湿度60%、南南西の風1・2メートル)
 8月の世界選手権(モスクワ)代表選考会を兼ねて行われ、藤原正和(31=Honda)が2時間8分51秒で日本人トップの4位でゴールした。代表決定の2時間8分切りはならなかったが有力候補となった。中大時代の03年びわ湖毎日で2時間8分12秒の初マラソン日本最高&学生最高記録をマーク。しかし、同年パリ世界選手権を故障で欠場し悪夢を見た男は11年越しの雪辱のチャンスをつかんだ。ビンセント・キプルト(25=ケニア)が2時間8分34秒で優勝した。

 固く握りしめた拳に万感の思いを込めた。03年、同じびわ湖で初マラソン日本最高&学生最高記録をマークした藤原が、長い低迷期を経て輝きを取り戻した。冷たい風が吹く悪条件の中、38キロ手前でアフリカ勢に離されても、日本人トップは譲らない。「最低限のことはできたかな。何とか選考のテーブルには載ったと思う」

 10年前、日本男子マラソン界の将来を背負う存在として期待されながら、同年のパリ世界選手権では右腸脛(ちょうけい)じん帯炎を発症し、レース1週間前に欠場。現地入りし、会場のスタッド・ド・フランスなども下見していたが“花の都”を駆けることはできなかった。帰国の航空機内では、悔しさと情けなさから一睡もできず。悪夢は脳裏に刻まれ「今でも競技場が夢に出てくる」と振り返った。

 だが、本当の試練はその後に訪れた。初マラソンで好走した自身の幻影を追いかけ、オーバートレーニングに陥る。05年には肝機能障害を患い、競技をやめることも考えた。さらに06年には腰痛に加え、左ふくらはぎも故障。08年のびわ湖で5年ぶりに42・195キロのレースに戻り、10年東京で優勝し復活の足がかりをつかんだものの、ロンドン五輪代表の道は遠かった。

 転機となったのは、11年4月に麻紀子夫人(31)と結婚したことだった。1月の合宿で貧血に陥り、練習を途中で切り上げるピンチに見舞われながらも、家で待つ愛妻が鉄分豊富な食事を用意して献身的にサポートしてくれた。そうして、つかんだ“リベンジ”のチャンス。「嫌な思いを払しょくしたいと思って、10年やってきた。10年前の自分より、我慢できるところは強くなった」。地獄を見た男は精神力という新たな鎧(よろい)を身につけ、日本マラソン界の中心の一角に帰ってきた。

 ▽世界選手権の男子マラソン選考 枠は5。福岡国際、東京、びわ湖毎日で2時間8分を切った日本人トップは代表決定だったが、誰も基準タイムを突破できず。ただ、各大会の日本人トップ(堀端、前田、藤原)は2時間8分台で代表確実。日本人3位以内に入れば選考対象になる別府大分で8分台の川内、中本も確実だ。4月のボストン、ロンドンで2時間8分を切った選手も選考に加えられるが、有力選手はエントリーしていない。代表は4月22日以降に発表。

 ◆藤原 正和(ふじわら・まさかず)1981年(昭56)3月6日、兵庫県神崎郡出身の31歳。西脇工3年時には全国高校駅伝で優勝し、中大では箱根駅伝で1年時に5区、4年時に2区で区間賞。03年3月のびわ湖毎日で初マラソンと学生最高記録となる2時間8分12秒をマーク。1メートル67、54キロ。

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2013年3月4日のニュース