高見盛のパフォーマンス 恐怖心振り払う“儀式”だった

[ 2013年1月28日 06:00 ]

取組前、気合注入のパフォーマンスで館内を沸かした高見盛

大相撲初場所千秋楽

(1月27日 両国国技館)
 高見盛の気合注入パフォーマンスの始まりは02年春場所だった。00年秋場所の若の里戦で「右膝前十字じん帯断裂」の大ケガ。懸命のリハビリからよみがえったが、初日(不戦勝)に土俵に上がった瞬間、ケガをした取組が脳裏をよぎり恐怖心を覚えた。翌2日目からは恐怖を取り除くため、最後の塩を取るときに顔面を叩いて両腕を振り下ろしながら鼓舞。実に奇妙なしぐさだったが、世間には受け入れられた。

 だが、そのパフォーマンスも約4カ月間の「下宿生活」がなければ誕生しなかった。高見盛の恩人で「名古屋の親父」とも呼ばれている愛知学院大教授の黒神聡さん(70、現同大学学生部長)は「愚直な男が現役を続けられたのは、名古屋での生活があったから」と振り返った。

 00年秋、ケガに思い悩む高見盛の精神状態を危ぐした黒神さんは知人だった先代東関親方と相談し、名古屋市近郊の長久手町(現長久手市)にある自宅に呼び寄せた。

 一般家庭での共同生活。黒神さんのケアもあって高見盛の精神状態は着実に安定していったが一度だけ危機があった。01年1月に幕下に陥落することを知った高見盛が突然暴れだした。「土俵に上がる!死んでもいいから、相撲を取る!」。自暴自棄だった男を救ったのは黒神さんの手紙だった。「君だけが苦しいのではない。世の中みんな懸命に生きているんだ」。それを機に高見盛は反抗することなくリハビリに励み、1年後、ロボコップとなった。

 初場所中、黒神さんは“息子”宛てに2回手紙を書き、21日に送った手紙は「せいけん(精彦)、もういいよ」だった。「名古屋で地獄を見なかったら、すぐに引退していたかもしれない。今はご苦労さんと言いたい」。ロボコップの恩人は不世出の個性派をねぎらった。

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