巨星、墜つ 大鵬さん、二所ノ関消滅に心痛めながら…

[ 2013年1月20日 06:00 ]

第48代横綱・大鵬の雲竜型土俵入り

 大相撲で史上最多32度の優勝を誇る元横綱・大鵬の納谷幸喜(なや・こうき)さんが19日午後3時15分、都内の病院で心室頻拍(ひんぱく)のため死去した。72歳だった。納谷さんは56年秋場所で初土俵を踏み、61年秋場所後に21歳3カ月の若さで横綱に昇進。同時に昇進した柏戸とともに「柏鵬時代」を築いた。現役引退後は大鵬部屋を創設。しかし、77年に脳梗塞で倒れ、最近は肺を患って入退院を繰り返していた。葬儀・告別式は未定。

 納谷さんの弟子で、現在部屋を任されている大嶽親方(元十両・大竜)によると、肺などを患っていた納谷さんは3、4日前に検査のために都内の病院に入院。19日朝は芳子夫人から差し出された食事を半分ほど口にしたという。だがその後に容体が悪化。家族らも駆けつけたが、午後3時15分、帰らぬ人となった。自宅のある東京都江東区の大嶽部屋には、北の湖理事長(元横綱)ら相撲協会関係者らが駆けつけ、遺体は生前から大好きだった稽古場に板を敷いて安置された。

 納谷さんは、先代二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花)の弟子として北海道から上京。56年秋場所で初土俵を踏み、61年の秋場所後に21歳3カ月の当時史上最年少で横綱に昇進した。現役時代は1メートル87、150キロ前後の恵まれた体格を武器に左四つの正攻法で無敵を誇り、優勝回数は歴代最多の32度。その輝かしい戦績が後世まで語られるのは同時に横綱に昇進した好敵手・柏戸が存在したからだ。

 納谷さんが「柏戸関がいたからこそ、私は頑張れた」と生前に言っていたように、好対照な両雄の激突が列島を熱狂させ、「花も実もある柏鵬時代」とうたわれた。大鵬の爽やかな笑顔は万人に愛され、子供の好きなもののたとえから「巨人、大鵬、卵焼き」のフレーズが生まれた。その一方で、あまりの強さのため、一時は蔵前国技館で閑古鳥が鳴き「相撲は勝つだけが能じゃない」と指摘された。そんな批判の声には「勝つために稽古し、努力する過程で精神面も鍛えられる。稽古をガンガンやる間に心技体が形成される」と反論。また、45連勝が止まった一番が「世紀の大誤審」と言われた69年春場所2日目の戸田戦は、翌夏場所からのビデオ判定導入のきっかけとなった。柏戸がケガから復活優勝を遂げた63年秋場所千秋楽の取組は当時、作家だった石原慎太郎氏から八百長と指摘され、訴訟騒ぎ(その後、石原氏が謝罪)になるなど、エピソードに事欠かなかった。

 71年に引退し、80年に相撲協会の理事に就任。69年から09年まで、日本赤十字社に血液運搬車「大鵬号」70台を寄贈するなど慈善活動にも意欲を見せ、09年には相撲界から初となる文化功労者に選出された。初場所前には自らが育った二所ノ関部屋が消滅することが決まり「いろいろな方々で築いてきたものがなくなるのだから、わびしいし、寂しい。ぜひ二所ノ関部屋を再興してほしい」と心を痛めていた。それが角界へ発信した最後のメッセージとなった。

 ▽巨人、大鵬、卵焼き 日本の高度経済成長真っただ中の1960年代、大鵬は61年に横綱昇進し63年と67年には6連覇を達成するなど全盛期を迎えた。プロ野球では長嶋、王らを擁した巨人が61、63年に日本シリーズを制し9年連続日本一のV9は65年に始まった。国民は時代を象徴するような強い存在に熱狂し、当時の子供が大好きなものとして「巨人、大鵬、卵焼き」の言葉が生まれた。

 ◆大鵬 幸喜(たいほう・こうき)本名・納谷幸喜(なや・こうき)。1940年(昭15)5月29日、樺太(現在のサハリン)敷香郡敷香町生まれ。北海道川上郡弟子屈(てしかが)町で育ち、56年秋場所で初土俵。59年夏場所で新十両、しこ名を納谷から「大鵬」に改名。しこ名は中国古典「荘子」での伝説上の巨大な鳥にちなんだ。家族は芳子夫人と3女。三女の美絵子さんは元関脇・貴闘力の鎌苅忠茂氏の元妻。1メートル87。153キロ。

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