東京五輪金メダルのヘーシンク氏死去

[ 2010年8月29日 06:00 ]

東京五輪柔道の無差別級で金メダルを獲得し、表彰式で握手を求められるヘーシンク。左端は神永昭夫(64年、日本武道館)

 1964年東京五輪の柔道無差別級金メダリストで、国際オリンピック委員会(IOC)委員でもあるアントン・ヘーシンク氏(オランダ)が27日、オランダのユトレヒトの病院で死去した。76歳だった。死因は明らかにされていない。日本のお家芸の柔道が初めて採用された東京五輪に出場し、圧倒的な強さを見せつけたヘーシンク氏は、引退後にカラー柔道着の普及にも尽力。柔道の国際化をけん引した人物だった。

 ヘーシンク氏は64年東京五輪で日本中に衝撃を与えた。日本武道館で行われた神永昭夫(故人)との無差別級決勝。寝技に誘うと左けさ固めで抑え込み、9分22秒(当時の試合時間は10分)、一本勝ちした。柔道が正式競技として初採用された地元開催の五輪で、最強を決める無差別級の金メダルを外国人選手に奪われ、日本は全階級制覇を逃した。のちに同氏は「私が東京五輪で勝たなければ、柔道は現在のように国際化しなかっただろう」と語ったが、日本の伝統競技を世界に「JUDO」として広めた立役者でもあった。

 1メートル98、120キロ。“オランダの巨人”と呼ばれたが、「和の心」も理解していた。東京五輪での優勝に興奮して畳に駆け上がろうとしたオランダ関係者を右手で制したのは、神聖な畳の意味を理解していたから。日本の柔道関係者から敬意を持って受け入れられた。

 引退後はカラー柔道着を発案し、日本と対決した。日本と当時の国際柔道連盟執行部が全面対立する構図の中、独特の政治手腕を発揮し「柔道の発展には欠かせない」と語りかけた。結果的にカラー柔道着の導入が競技の国際化を推進して「JUDO」を確立した。
 87年に委員となった国際オリンピック委員会(IOC)でも存在感を示したが、02年ソルトレークシティー冬季五輪招致に絡む収賄疑惑で99年に警告処分。最近は体調を崩しがちで、公の場に出ることは少なかった。

 引退後、一時はプロレスラーとして全日本プロレスのリングに上がった。73年にジャイアント馬場とのタッグでデビュー。78年、ジャンボ鶴田とのUNヘビー級タイトルマッチ戦が最後のリングとなった。97年には勲三等瑞宝章を与えられた。宴席で日本の演歌を熱唱したという大男は柔道だけでなく、日本のスポーツの歴史を語る上で欠かせない人物だった。

 ▼山下泰裕氏(84年ロサンゼルス五輪金メダリスト) 東京五輪での活躍が有名だが、なによりその後に柔道の発展に尽くしてくれた存在だった。柔道を分かりやすく世界に広めてくれた。IOC委員でも活躍され、個人的には国際スポーツ界での政治というものを教えてもらった。あまりに残念な訃報だ。
 ▼全日本柔道連盟上村春樹会長 柔道を競技面だけではなく、精神面でも大事にされた。東京五輪当時は柔道が世界に普及しておらず、相当な苦労をして金メダルを獲ったと思う。
 ▼日本オリンピック委員会竹田恒和会長 柔道を世界に広めた方だった。日本のことをよく知っており、愛してくれた。(08年)大阪や(16年)東京の五輪招致で協力して、アドバイスをいただいた。日本にとって重要な方を亡くした。

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