ミュンヘン五輪金主将 中村祐造氏死去

[ 2010年7月27日 06:00 ]

死去した中村祐造氏

 1972年ミュンヘン五輪で金メダルを獲得したバレーボール男子日本代表の主将で、77~79年に代表監督も務めた中村祐造(なかむら・ゆうぞう)氏が20日、視床出血のため亡くなった。日本バレーボール協会が26日に発表した。68歳だった。兵庫県姫路市出身。葬儀・告別式は近親者のみで既に行われており、今後あらためて「お別れの会」が開かれる予定。

 日本男子バレーの黄金期を支えた闘将が帰らぬ人となった。関係者によると、中村氏は5月に視床出血で倒れて入院。治療に励んでいたが、今月20日に容体が急変し、息を引き取った。
 1942年(昭17)生まれの中村氏は中学時代にバレーボールを始め、姫路工大付高(現兵庫県大付高)から61年に八幡製鉄(現新日鉄)入り。1メートル84とバレーボール選手としては小柄だったが、猛練習で頭角を現し、21歳の63年に代表デビュー。64年東京五輪では銅メダル獲得に貢献した。
 65年に就任した松平康隆監督(現日本協会名誉会長)の下では主将を任された。逆立ちするなど「松平サーカス」とも呼ばれた特殊な厳しい練習を、先頭に立って引っ張った。伝説となっているのは72年ミュンヘン五輪準決勝のブルガリア戦。2セットを先取された大ピンチで起用されると、ガッツあふれるプレーと大きな声でムードを一変させ、3―2の逆転勝利に導いた。決勝では東ドイツを下して日本男子初の金メダルを獲得した。
 新日鉄では26歳から選手兼監督を務め、田中幹保や小田勝美ら高卒選手を熱血指導。低迷期にあったチームを常勝軍団に育て上げた。77年に現役引退。77~79年は代表監督も務め、日本協会理事などを歴任した。現役時代の晩年から腎臓を悪くしていたが、腎臓移植を経て強化や普及活動に携わり、最近も講演活動で全国各地を回っていた。
 この日、中村氏の家族から悲報を聞かされた松平名誉会長は「祐造をキャプテンにしたことが金メダル獲得の一番の要因だと思っている。どこの国にも負けない激しい練習を、率先垂範してくれたおかげで、大古や横田や森田がついてきた。天才型ではない、努力型の男。心から感謝している」と話した。

 ▼堺ブレイザーズ小田勝美部長(元新日鉄選手)新日鉄のバレーを支えてくれた方で、非常に残念。理論理屈よりも体で覚えろ、という鬼コーチだった。1日8時間練習で、時には鉄拳もあったが、日本一への執着心はものすごかった。

 ◆中村 祐造(なかむら・ゆうぞう)1942年(昭17)4月24日、兵庫県姫路市生まれ。姫路工大付高(現姫路工)から61年に八幡製鉄(現新日鉄)入り。五輪は2度出場し、64年東京で銅メダル、72年ミュンヘンで金メダル。世界選手権は66年が5位、70年が3位、74年が3位。日本代表監督では77年W杯で2位。日本協会の理事なども務めた。96年に渡米して腎臓移植手術を受けていた。

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2010年7月27日のニュース