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【三宅哲夫の旅ヂカラ漫遊記】和歌山も幸村ワールド全開

[ 2016年4月13日 05:30 ]

昌幸・幸村父子が最初に閉居させられた蓮華定院。六文銭の家紋が人気の宿坊にもなっている
Photo By スポニチ

 真田幸村(信繁)を描いて人気のNHK大河ドラマ「真田丸」だが、ゆかりの地は長野や大阪だけではない。その生涯の中で最も長く暮らしたのが和歌山県・九度山(くどやま)。関ケ原の合戦に敗れ閉居を命じられた場所で、来るべき大坂冬・夏の陣に備えた雌伏の14年。観光客でにぎわう現地を訪ねると、徳川家康を震え上がらせた男の意外な一面が見えてきた。

 世界遺産の高野山を開いた弘法大師(空海)が、母親に会うため女人禁制の山を月に9度下りて行ったことからその名が付いた九度山。閉居を命じられた昌幸・幸村父子も当初は宿坊契約を結んでいた高野山の蓮華定院(れんげじょういん)に身を寄せていたが半年後、妻子との生活が許され転居。その数は家族と16人の家来、従者合わせて約60人に及んだという。

 南海高野線難波駅(大阪)から、車内に真田氏家紋の六文銭や結び雁金(かりがね)をあしらった「真田赤備え列車」に乗って約1時間。真田色に装飾された九度山駅から「真田のみち」を歩いて約10分。父子の住居だった庵(いおり)跡が見えてきた。現在は「真田庵」と呼ばれる善名称院(ぜんみょうしょういん)が立ち、六文銭が刻まれた門をくぐると本堂、境内には赦免の願いもかなわず65歳で死去した昌幸の墓がたたずむ。そばには幸村が屋敷に落ちた雷を封じたという「雷封じの井」、来る途中には幸村が大坂城に向かう時に通り抜けたといわれる「真田古墳(真田の抜け穴)」もあり、真田十勇士や影武者伝説が残る幸村のミステリアスな部分に拍車をかける。

 同所での暮らしは兄・信之の仕送りに頼るなど困窮を極めたが、一方で真田ひもを家来に売り歩かせて収入を得ながら諸国の情勢を探ったり、近くの紀の川沿いで水泳や体の訓練に励むなど再起に向けて準備。この間、信之の家臣に焼酎を送ってくれと頼んだりもしたようで、直筆書状が蓮華定院に残されている。

 宿はその蓮華定院に取ったが、正門のちょうちんをはじめ至るところに六文銭が見られ、幸村が暮らした日本間や周囲の部屋には焼酎書状のほか、近くの丹生都比売(にうつひめ)神社の大祭に不参加の返書、幸村使用の南蛮鉄兜(かぶと)などが展示され、幸村ワールド全開。「真田日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とは薩摩の島津家久が大坂の陣で家康を追い詰めた幸村を称えた言葉だが、確かに日本一の活力をもらったような気分だった。 

 ≪ドラマ衣装も展示≫真田庵のそばでにぎわうのが「九度山・真田ミュージアム」(入場料500円)。真田三代の軌跡と九度山での生活をパネルやドラマで紹介したり、ドラマで着用された衣装などを展示。オープン後10日で入場客1万人を突破した。同庵隣の「そば処幸村庵」は上田市で修業を積んだ職人が打つそば(幸村御膳2100円など)が人気で、平日なのに行列ができるほど。そばも信州から仕入れるこだわりが受けている。

 ▽行かれる方へ 高野山へは高野山ケーブル極楽橋駅からケーブルカー。117の寺院のうち52カ寺が宿坊。蓮華定院は1泊2食付き9500円から。問い合わせは九度山町産業観光課=(電)0736(54)2019、総本山金剛峯寺=(電)同(56)2011。

 ≪高野山「奥之院」には信長ら戦国武将の供養塔≫翌日は蓮華定院からバスで約10分の「奥之院」に向かった。真言密教の聖地・高野山の中でも弘法大師入定(にゅうじょう)の聖域で、参道は一の橋から大師御廟(ごびょう)まで約2キロ。両側には樹齢数百年の杉の木がそびえ、20万基を超える墓碑や供養塔が並ぶ。中には織田信長をはじめ明智光秀、石田三成、武田信玄ら戦国乱世を駆け抜けた戦国武将や皇族、文人のものも。すべて遺骨ではなく髪や爪などが入った供養塔というが、誰もが敵味方の区別なく大師の元で魂を休めているように見えた。御廟橋を渡ると1000年近く燃え続ける灯籠がある燈籠(とうろう)堂。その奥が835年(承和2)3月21日寅(とら)の刻に大師が入定したという御廟だ。内部こそ見られないが、前に立つと心身ともに引き締まる思い。それは標高900メートルのせいだけではなかった。

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