海部元首相死去 91歳、湾岸戦争で自衛隊初の海外派遣 政治改革の志貫く

[ 2022年1月15日 05:30 ]

海部俊樹元首相(12年撮影)
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 元首相の海部俊樹(かいふ・としき)氏が9日午前4時、老衰のため東京都内で死去した。91歳。名古屋市出身。葬儀・告別式は近親者のみで行われた。喪主は長男正樹(まさき)氏。首相在任中、湾岸戦争を受けて1991年には自衛隊初の海外派遣を実行。弱小派閥出身ながらクリーンなイメージを掲げて政治改革の志を貫いた。

 水玉模様のネクタイを締め、政治の激変期にかじを取った海部氏が静かに旅立った。

 民主党が政権交代した09年衆院選で落選した後、政界を引退。永田町関係者によると、19年秋に検査入院した病院で転倒し足を骨折。「その後、体調が芳しくなかったと聞いています」と関係者は明かした。

 リクルート事件で竹下登内閣、女性スキャンダルで宇野宗佑内閣が相次いで倒れ、政治不信が高まっていた89年8月、昭和生まれ初の首相に就任した。小派閥の河本派所属だったが、クリーンなイメージを買われ、最大派閥の竹下派に支えられる形で約2年3カ月間務めた。

 人事では女性初の官房長官に森山真弓氏を起用。政治改革を内閣の最重要課題に位置づけ、党幹事長になった小沢一郎氏とともに実現を目指した。党内基盤の弱い海部氏にとって、田中角栄元首相や竹下派の金丸信会長(当時)の寵愛(ちょうあい)を受けた小沢氏は「一心同体」の存在だった。

 自身の回顧録では「“担ぐ神輿(みこし)は、軽くてパーなヤツが一番いい”。私に関する小沢発言で、最も有名なのがこれだろう」と述懐。自らを揶揄(やゆ)するような言葉も率直につづっており、政治改革を貫いた同志との結束をうかがわせた。

 在任中、国際情勢も激動。90年8月に起きた湾岸危機への対応を巡り、多国籍軍へ計130億ドルの巨額支援を行ったが、人的貢献が不十分だと批判を浴びた。91年に自衛隊初の本格的海外派遣としてペルシャ湾で海上自衛隊掃海艇に機雷を除去させ、92年の宮沢内閣による国連平和維持活動(PKO)協力法成立への道を開いた。

 「内閣の命運を懸ける」と明言した小選挙区制導入を柱とする政治改革関連法案の廃案が決まると「重大な決意」で衆院解散を模索したが、後ろ盾だった竹下派の同意が得られず、91年11月に退陣に追い込まれた。

 その後も激動の政治家人生だった。94年、小沢氏らに担がれて自民離党を表明し首相指名選挙に臨んだが、自民、社会、新党さきがけ3党が推す村山富市氏に敗北。小沢氏らと結成した新進党の初代党首に就いた後、自由党、保守党などを経て03年に自民へ復党したが、衆院選落選で78歳で政界を引退した。15年、内閣制度創設130周年を記念する式典では車いすに乗って出席する姿があった。自民党関係者は「得意だった演説がもう聞けないとは」と寂しげに語った。

 ◇海部 俊樹(かいふ・としき)1931年(昭6)1月2日生まれ、名古屋市出身。早大では雄弁会に所属。在学中に議員秘書を務め、60年に衆院旧愛知3区で初当選して以来、16回当選。故三木武夫元首相の秘蔵っ子として頭角を現し、三木内閣の官房副長官や福田赳夫、中曽根両内閣の文相を歴任。水玉模様のネクタイは三木氏からもらったことがきっかけで締め始めた。気さくな人柄で首相になっても番記者から「海部さん」と呼ばれた。

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