終戦から75年 抑留経験の95歳日本人「もう一度ウズベキスタンの人に会いたい」延期五輪“再会”心待ち

[ 2020年8月15日 05:30 ]

東京五輪やホストタウン、抑留生活について笑顔で語る新家苞さん。表情は若々しい
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 終戦の日を15日に迎える中、東京五輪を心待ちにしている人がいる。旧ソ連・ウズベキスタンで抑留を経験した新家苞(にいのみ・しげる)さん(95)=大阪府高槻市。引き揚げ地の京都府舞鶴市が同国のレスリング、柔道のホストタウンになっているからだ。新型コロナウイルスの影響で五輪は1年延期になったが「コロナに負けない。もう一度、ウズベクの人に会いたい」と話している。 (三宅 哲夫)

 「舞鶴は田舎町なのによく頑張った。(ホストタウンになり)そりゃうれしいよ」。大阪市のホテルでインタビューに答えた新家さん。最初は硬かった表情もすぐにほころんだ。「レスリング、柔道よりサッカーが良かったけどね」。ちょっぴりちゃめっ気も交える。しっかりした足取りで、白髪につやつやした肌。とても95歳とは思えない。

 新家さんがシベリア抑留を受け、ウズベキスタンの首都タシケントに送られたのは1945年8月の終戦直後。それから約2年、収容所で暮らしている間に、携わったのがオペラハウスのナボイ劇場の建設。日本人抑留者計60万人のうち同国には約2万5000人がいたといわれ、体力のある約450人が強制従事させられた。

 「レンガでの外壁造りや床張り、土木作業など1日8時間。でも苦しくはなかった。ウズベクの人は親しみやすくていい人たちばかり。景色もいいしね。作業料でタバコを買って吸ったりもしたよ」。月1度の休日には“演芸班”をつくって股旅ものなどを上演。戦前、京都の美術学校に通っていた新家さんは、舞台の背景画などを担当したという。

 そのナボイ劇場が交流の礎となった。新家さんはカザフスタン・カラガンダに移された後、49年12月に舞鶴港に引き揚げたが、66年4月、タシケントでM5・0の大地震が発生。街はほぼ壊滅したものの劇場は無傷で、日本人の技術の高さや勤勉さが称賛された。

 これを機に、日本人の足跡を残そうとタシケントに日本人抑留史料館が建設され、2015年10月、館長のジャリル・スルタノフ氏が来日。さらに舞鶴市が高校総体のレスリング会場になり、競技が市に根付いたこともあって、レスリング強豪国のホストタウンに決まった。

 ウズベキスタンに抑留された日本人で生き残っているのは新家さんのみ。引き揚げ後、同僚の墓参などのため4度、現地を訪ね、舞鶴の赤れんが博物館の展示用にナボイ劇場のレンガ(約3キロ)を持ち帰ったこともある。楽しみにしていた五輪での“再会”は1年お預けになった。「戦争を含め何でも体験してきたつもりだったけど、コロナに出合うとは。でも負けない。もう一度ウズベクの人たちに会って、オリンピックを見たい」。95歳の言葉に力がこもった。

 《レガシーとして交流を深めたい》舞鶴市レスリング協会理事長で日星高校レスリング部顧問の三村和人さん(60)もホストタウン決定に関わった一人。網野高(京丹後市)の監督としてアテネ、北京両五輪銀メダリストの伊調千春さんらを育てたが、15年夏の高校総体で舞鶴がレスリング会場になったことから、13年4月に東舞鶴高に赴任。レスリング競技を舞鶴に根付かせたことがホストタウン誘致の決め手になったという。「総体だけで終わらせないと思っていただけにうれしかった」と三村さん。「これを機に、五輪レガシーとしてウズベクと人的交流を深めていきたい」。同国からはレアルトゥル・エドゥアルドビッチさん(36)が国際交流員として来訪。「ウズベクのことを知ってもらえるのはありがたいし、1年延びて日本をより多く楽しめる」と準備に奔走している。

 ◇ウズベキスタン 中央アジアに位置する共和制国家。かつてソビエト連邦の構成国で91年に独立。公用語はウズベク語で、人口は約3200万人。

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