ノムさん「おう、生きとったか」 楽天時代の番記者・早坂まき子アナ 9年前の気配りに今でも感謝

[ 2020年3月10日 06:20 ]

楽天監督時代の野村克也さんを取材する早坂まき子
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 【東日本大震災9年】球界に偉大な足跡を残し、2月11日に虚血性心不全のため84歳で旅立った野村克也さん。希代の名将が最後に指揮を執ったのは東北を本拠地とする楽天だ。09年にチームを去ってから2年後に東日本大震災が発生。4年間“番記者”を務めた地元局のアナウンサーは「おう、生きとったか」と電話をくれた気配りに今も感謝している。 (安田 健二)

 杜の都を未曽有の大地震が襲って3日ほど過ぎた頃だった。宮城県利府町の遺体安置所を取材中だった仙台放送アナウンサー(当時)の早坂まき子(38)の携帯電話が鳴った。「おう、生きとったか。ワシや」と懐かしのダミ声。野村さんからの安否確認だった。
 早坂が入社2年目の06年から野村さんは楽天の指揮を執った。スポーツ番組のキャスターとして“野村番”は4年間。09年にユニホームを脱いだ直後に石巻市で行われた講演で司会を担当した縁もあり気に掛けてもらっていた。
 「石巻も津波に襲われて大変です」。そう伝えると「そうか。東京も揺れたが、なんと言ったらいいか…」と返したきり、2人の間には沈黙が流れた。

 1分にも満たない通話だったが、早坂は当時を振り返り「気遣っていただき本当にありがたかった」と感謝した。野村さんはその後、復興支援ソング「花は咲く」へ参加。震災後も仙台そして東北に寄り添い続けた。
 配球だけでなく気を配る名人。それはメディアに対しても同じ。「東京からやってくるキー局の人気アナだけ特別扱いとかはなく、駆け出しの私にも分け隔てなく平等に話していただいた」と早坂。試合前のベンチで報道陣に囲まれる時は、雑談でさえ記者やアナウンサーが日替わりで話題の主役に。えこひいきを快く思わないメディア心理と影響力を熟知してのものだった。
 09年に契約満了で解任された際には、仮住まいの仙台市内のホテルを退室する一日に密着取材。その時も「なんで俺はやめさせられるんや」と苦笑いでボヤいていた。その後、石巻で開かれた講演会で早坂が司会を担当。野村さんを紹介する際に「きょうは“監督”と呼んでいいですか?」と聴衆へ呼びかけて拍手喝采。晴れやかな表情で野村節をふるう姿が今も目に焼き付いている。
 “野村の教え”で肝に銘じているのは「プロとは24時間仕事のことを考え続けること」。震災では発生直後、スカートとハイヒールからズボンと運動靴に着替えて会社を飛び出し仙台駅へ急行。その後も現場を駆け回った。フリーとなり拠点を東京に移してからは関東にいながらできる被災地支援を発信。11年8月から翌年4月までケーブルテレビの番組を通じて東京発のボランティアツアーや津波で流された写真の洗浄などを紹介した。
 被災した人々との交流は9年たった今も続く。思い続けること。早坂の人生にも“野村の教え”は根付いている。

 《サッチーと恋バナ》早坂は“サッチーの教え”も授かっていた。07年ごろ、知人の誘いで1度だけ野村夫妻と会食したことがあった。そこで一番盛り上がったのが妻の沙知代さん(享年85)との恋愛トーク。当時交際相手がいなかった早坂へ「鉄は熱いうちに打つ」とアドバイスを送った。その心を「結婚を意識した人が現れたら素早くストレートに感情表現をしたほうがいい」と説いたという。まさに野村さんと出会ってすぐ再婚を決めた沙知代さんらしい言葉だった。

 ◆早坂 まき子(はやさか・まきこ)本名早坂牧子。1981年(昭56)9月7日生まれ、東京都出身の38歳。02年ミス清泉女子大に選出。05年、フジテレビ系列の仙台放送に入社。情報番組のリポーターなどを務めた。11年4月末で退社しフリーへ転身。12年5月に結婚を発表。血液型B。

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