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【コラム】西部謙司

ベッカムとファーガソン

[ 2013年5月18日 06:00 ]

今季限りで現役を引退すると発表した元イングランド代表のベッカム
Photo By スポニチ

 マンチェスター・ユナイテッドのクラブハウスは練習場に面していて、監督室からグラウンドがよく見えるそうだ。

 アレックス・ファーガソン監督は、練習が終わると監督室から居残り練習に励む選手たちをよく見ていた。選手を注意深く観察するタイプの監督で、練習の指揮もコー チに任せることが多かった。ブライアン・キッド、スティーブ・マクラーレン、カルロス・ケイロスといった名参謀と組み、練習はもっぱら彼らに任せて選手の動きを注視した。その中から新たなアイデアを得ることもあったに違いない。一歩外からチームを眺めることで、見えてくるものがあるのだろう。戦術家のイメージはないのだが、よく意表をつく策を打った。

 エリック・カントナの個人練習は有名で、「トレーニングで入場料がとれる」と言われていたぐらいだった。クロスボールからのヘディング、ボレーシュートなど技を念入りに磨く。実はそのときにクロスボールを蹴る役をやっていたのが若き日のデイビッド・ベッカムだった。高いクロス、速いボール、カーブ…カントナの要求に応じてベッカムは正確なクロスを蹴った。その様子をファーガソン監督は監督室から見ていた。「なかなかいいボールを蹴るな」と、そのときにベッカムの才能を発見したそうだ。
 やがてベッカムはカントナの「7番」を継ぎ、ユナイテッドの看板選手へ成長する。同時に垢抜けない青年はスパイス・ガールズの1人と交際を始め、ファッション・アイコンへと変貌していった。監督は心配し、苦々しく思ってもいたようだ。ある日、監督が腹立ち紛れに蹴り上げたスパイクがスターの顔面にヒット、額を切るケガをしたことが決別のきっかけだったというのがメディアの定説だ。

 ベッカムはレアル・マドリードへ去り、ミラン、さらにアメリカを経て、パリ・サンジェルマンが最後のチームとなった。その間にも ユナイテッドを率いて勝ち続けたファーガソンも、今季を最後にオールドトラフォードでの監督生活に別れを告げた。

 ベッカムは世界で最も有名なフットボーラーだが、史上最高クラスのロングキックを除けば意外と地味な選手である。基本に忠実で、攻守にわたって労を厭わずに走る。ピッチを離れたときの華やかな印象とはまた別の、堅実なプレーぶりだった。これだけ長くやれたのは錆びない技術だけでなく、フィジカルコンディションを維持してきた真面目さにあると思う。

 真面目という点では、ファーガソンほど真面目な監督もいない。選手を震え上がらせる厳しさ、ときおりみせる温かさ、メディアを利用して対戦相手にマインドゲームを仕掛ける狡猾さ、さまざまな顔を持つが一貫している のが「勝つ」という職務に対する真面目さだった。

 ユナイテッドを象徴する監督と選手が同じタイミングで引退したが、彼らが残したものは、これからも受け継がれていくのだろう。(西部謙司=スポーツライター)

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