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【コラム】金子達仁

Jでは経験できない海外での重圧

[ 2016年10月6日 20:40 ]

 日本のサッカー界に「海外組」という言葉が定着して久しい。ただ、ハリルホジッチ監督ほど、はっきりとJリーグのレベルにダメだしをした監督はいなかった。Jのレギュラーより、得点王より、海外の補欠。

 ふむ、「代わりがいるか?」と逆ギレする余裕のなさは心配だが、いまのJリーグでは国際大会を戦う上で明らかに不足しているものがあることは、先のリオ五輪でも浮き彫りになった。試合に出ていない本田や香川にこだわる気持ち、わからないではない(試合に出ていない宇佐美を呼んで、出ている大迫を呼ばなかったのはまったく理解できないが)。

 ではなぜ、ハリルホジッチ監督のみならず、歴代の代表監督たちは「海外組」に重きを置いてきたのか。レベルの問題?それは違う。もしそこに原因を見いだすというのであれば、いまよりもレベルの低いJリーグでプレーしていたドゥンガやストイコビッチが、代表の主将として君臨し続けていた理由が説明できない。

 ただ、ピクシーやドゥンガには、日本人選手と決定的に違うところがあった。スポーツ、あるいはゲームというものに対する考え方である。

 たとえば草野球、草サッカーをしたとする。日本人ならば、必ずこういう人がいる。「草なんだから、そんなにムキになるなよ」。公式戦ならばいざ知らず、“遊び”の試合でそこまでならなくとも。きっと、そう考える日本人は珍しくないはずだ。

 だが、ピクシーたちは違う。草だろうがW杯だろうが、サッカーはサッカー。ゲームはゲーム。死に物狂いで勝ちにいくし、味方のミスには激怒する。状況やステージによって真剣度が変わってくる日本人に対し、彼らは基本、同じテンションで試合に臨む。

 ゆえに、ドゥンガたちはJでプレーしていてもW杯で活躍できた。なぜって、自分に課しているものは何も変わらないから。

 海外のクラブに所属することで、日本の選手たちはJでは味わえない重圧を受ける。ミスに対する叱責(しっせき)。結果に対する責任。決定的なシュートを外せば、チャントではなく罵声が聞こえてくる日常。状況によって真剣度が変わってしまう日本人は、いやでも、Jよりも追い込まれてプレーする。そして、その重圧によって、成長が促される。

 思えば、発足当時のJリーグには、ドゥンガたちだけでなく、周囲の日本人選手やレフェリーに対して激怒しまくっている外国人選手が珍しくなかった。怯(おび)え、あるいは憤慨する日本人は多かったが、いまにして思えば、あれは欧州や南米の日常との遭遇だった。

 あのころに比べれば、Jの全体的なレベルはずいぶん上がったとわたしは思う。しかし、依然として海外に行かなければ体験できないものが残ってしまっているのも事実。これを変えるのは簡単なことではないが、変えない限り、日程やシステムをどういじろうが、Jの未来は危うい。(金子達仁氏=スポーツライター)

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