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【コラム】金子達仁

戦術家でも戦略家でもなく 木を見て森も見た人だった

[ 2022年5月3日 13:00 ]

07年の日本代表合宿で、指揮を執るオシム監督
Photo By スポニチ

 初めてイビチャ・オシムという名前を意識したのは、いまから22年前、ベオグラードにあるストイコビッチの自宅にお邪魔した時だったと思う。

 ピクシー自らが焼き上げてくれた子豚の丸焼きをツマミに酒を飲む。酒が進むに連れ、話は彼がヨーロッパでプレーしていたころの時代に飛んだ。レッドスター時代のミランとの死闘。マルセイユでの輝きと、ベローナでの苦悩――。

 「W杯イタリア大会での俺たちのチームを覚えているか?」

 忘れるはずがない。というより、多くの日本人にとって、あの大会こそが初めてドラガン・ストイコビッチという才能を認識した大会でもあった。スビサレータの手をかすめるようにして決まったスペイン戦における直接FKは、大会のハイライトの一つだった。

 「監督の名前、知ってるか?」

 知らなかった。パンチェフは、スシッチは、カタネッツは、ヤルニは、スーケルは知っていた。キラ星のごとく揃(そろ)った才能の名前は覚えていても、それを率いていた監督の名前は完全に失念していた。あのチームは、選手が素晴らしかったから輝いていたのだと勝手に思い込んでいた。

 「イビチャ・オシム。いまはオーストリアの小さなクラブで監督をやっているんだが、彼こそが、俺にとって人生で出会った最高の監督だったね」

 「ヴェンゲルよりも?」

 「彼も素晴らしい監督だったけれど、わたしにとっては、断然イビチャだな。イタリアでのわたしたちが高い評価を受けられたのは、間違いなく彼の手腕のおかげだった。個人的には、彼のような指導者こそ、日本にとっては必要だと思うよ」

 ギャラもそんなに高くないはずだし、と付け加えてピクシーは笑った。

 報酬についてのピクシーのジョークが真実だったかどうかはわからない。けれども、その3年後、オシムは日本にやってきた。すでにバブルが弾(はじ)け、以前のように法外なギャラを捻出できなくなってきていた日本にやってきた。

 そして、ご存じの通り、多くの足跡を残していった。彼が日本にやってきた多くの外国人監督と違っていたのは、その根本的な姿勢だった。進んだ国からやってきた自分が、遅れた日本に教えてやる――というスタンスを捨てきれない外国人監督は珍しくなかったが、オシムは最初から、日本人とともに日本人にとっての最適解を探そうとした。

 なぜそんなことができたのか。いまになって思えば、彼が戦術家でも戦略家でもなく、哲学者だったからではないか。

 戦術は進化する。戦略も進化する。新しいことこそが正しく、古いことは侮蔑の対象となる。だから、先進エリアから来た国の人間は、途上国を見下しがちになる。

 だが、哲学者たるオシムにとっては、戦術も戦略も、求める境地にたどりつくための手段にすぎなかった。木を見て森を見ず、という言葉があるが、彼は、木を見て森も見た人だった。圧倒的な高みから森を眺め、それでいながら木にも目を配ることができた人だった。

 なぜイビチャ・オシムがピクシーにとって最高の監督だったのか。いまならわたしにも、理由の一端がわかる。あなたのサッカーに触れることができて幸せだった。ありがとう、いつか、向こうで。(金子達仁氏=スポーツライター)

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