【コラム】金子達仁

国民性をも凌駕するイタリアの栄光の歴史

[ 2019年10月12日 18:00 ]

イタリア代表を率いるマンチーニ監督(奥)
Photo By AP

 サッカーは国民性の現れるスポーツ――。

 サッカー小僧として物心がついたときから現在に至るまで、ついぞ疑ったことはなかった。

 なぜドイツはあれほど正確かつダイナミックなのか。ドイツだから。なぜブラジルはあれほど奔放で魅力的なのか。ブラジルだから。日本サッカーの未来に世界一緻密で繊細なパスワークを期待してしまうのも、理由は同じく、日本人だから、だった。

 ただ、個人的にどうしても国民性とサッカーが結びつかない国があった。

 イタリアである。

 自動車は、サッカーと同じく国民性が現れると言われる。なるほど、メルセデスやBMW、アウディにはドイツ代表のサッカーをイメージさせる部分があるし、軽妙洒脱なプジョーやシトロエンは、プラティニがいたころのフランス代表に通じるところがあった。

 だが、わたしの知る限り、アズーリがフェラーリだったことはない。ランボルギーニだったことも、フィアットだったこともない。比肩しうる存在がないほど魅力的で、でもドイツ車などに比べると雑なところもあって――そんなイタリア車のイメージとアズーリがダブったことはない。ドイツ代表は、ドイツ車同様に質実剛健といったイメージを持っているが、アズーリが官能という言葉で表現されることはまずない。

 カルチョといえばカテナチオ。ゴールに鍵をかけ、相手の猛攻をしのぎきる。いささか退屈で、創造的とは言い難いスタイルが、なぜあれほど陽気で芸術が愛される国で育ったのか。それが、長年の疑問だった。

 その謎が、ちょっと解けた気がしている。

 サッカー同様、ラグビーのW杯に出場しているイタリア代表もユニホームの色は青で、愛称は“アズーリ”である。ただ、その戦いぶりにはいささか驚かされた。

 背骨が感じられないのだ。

 サッカーのアズーリには、どの時代のチームであっても、自分たちの守備に対する絶対的な自信がある。1点を取れば勝てる。だから耐える。この自信と背骨を叩き潰(つぶ)すのは、世界のどんな国にとっても簡単なことではない。

 だが、ラグビーのアズーリは脆(もろ)かった。劣勢に陥るとコントロール不能となり、あっさりと自滅していった。今大会でもっとも無残なチームはどこかと問われれば、わたしは南アフリカ戦でのアズーリをあげる。

 サッカーをプレーしているのも、ラグビーをプレーしているのも、基本的にはイタリア人である。なのに、この違いは何なのか。

 歴史、かもしれない。

 イタリアは、欧州で初めてサッカーW杯を開催した。欧州で初めて王者となった。世界で初めて連覇を達成した。その歴史と、誇りを守るために編み出された武器が、カテナチオではなかったか。

 サッカーW杯の第1回王者となったウルグアイは、国の規模とは関係なく強豪としての地位を守り続けた。東京五輪で優勝した日本の女子バレーは、常にメダルを期待される存在であり続けている。

 ベースとして重視されるのは、堅い守備である。

 栄光の歴史は、国民性をも凌駕(りょうが)する。ラグビーW杯を眺めながら、そんなことを考えた。(金子達仁氏=スポーツライター)

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