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【コラム】海外通信員

愛の物語「アトレティコとトーレス」

[ 2016年5月2日 05:30 ]

“エル・ニーニョ”ことフェルナンド・ホセ・トーレス・サンス
Photo By AP

 4月17日に行われたリーガエスパニョーラ第33節、ビセンテ・カルデロンでのアトレティコ・マドリード対グラナダは3―0でアトレティコの勝利に終わった。アトレティコはこの試合をソシオ(クラブ会員)の子供たちを無料で招待するエル・ディア・デ・ロス・ニーニョス(子供たちの日)に設定していたが、スタンドを埋め尽くした人々に、チームの「永遠の子供」も素晴らしい活躍で応えて見せた。フェルナンド・ホセ・トーレス・サンス、愛称エル・ニーニョ。先発出場をしたアトレティコの絶対的アイドルは後半14分、コケのスルーパスからグラナダの両CB間を突破し、飛び出したGKアンドレス・フェルナンデスを目前に冷静なチップキックでネットを揺らした。彼の得点には、子供たちはもちろんのこと、おとなたちも狂喜乱舞だった。

 エル・ニーニョという愛称は日本で神の子などと訳されているが、現地スペインでは単に子供という意味だ。男性単数の定冠詞エルが付くエル・ニーニョは、古語においては幼子イエスという意味もあるが、愛称はすべて定冠詞付きで記される。トーレスは17歳という若さでアトレティコのトップチームデビューを果たし、その幼い顔つきから子供と呼ばれていた。(一度スペイン人記者に神の子のことを話して、「は?なぜそうなるんだ?」と首をかしげられたことがあった)先に現役を退いたレアル・マドリードのラウール・ゴンサレスもかつてはそう呼ばれ、一般の若者であっても行きつけのバルの店員からはそう話しかけられる。エル・ニーニョはただただ、我が子のように思える人に対して使われる、親愛の情が込められた愛称なのである。

 僕が渡西したのはトーレスがアトレティコからリヴァプールに移籍して2年後の2009年。なので、彼がリーガ2部所属のアトレティコでデビューを果たし、その後キャプテンマークを巻いてプレーしていた頃の現地の雰囲気は分かりかねる。が、2013~14シーズンのチャンピオンズリーグ準決勝ファーストレグ、カルデロンでのアトレティコ対チェルシーで、エル・ニーニョという愛称は神の子と同様、いや、それ以上に特別なものかもしれないと感じるようになった。観衆はチェルシーの選手紹介アナウンスで絶えず指笛を吹き続けたが、トーレスの名が呼ばれた瞬間には一転して大喝采。試合終了後にも、彼のチャントは全スタンドから歌われていた。

 そして2014~15シーズンの冬の移籍市場、トーレスはミランからの2年レンタルによってアトレティコ復帰を果たす。約7年半ぶりに心のクラブに帰還を果たした彼の歓迎は、想像を絶するものだった。アトレティコはFWラダメル・ファルカオ、FWダビド・ビジャといった大物選手の入団発表でカルデロンに約2万~2万5000人を集め、クラブはトーレスもそれ位の人数を集めると予想。一方、カルデロンの警備責任者リカルド・サンチェスはエル・ニーニョという存在をなめるなと言わんばかりに「いや、3万5000人だね。見ていろよ」と語った。しかし、そのどちらも胸を張ることはできなかった。1月4日、日曜の肌寒い朝にカルデロンに集まったのは、じつに4万5000人。普段であれば、入団発表の際に解放されるのはバックスタンドだけだが、リカルドはメインスタンドの使用許可も得ることになった。

 アトレティコ復帰当時、トーレスはキャリアの下り坂を迎えていたとされたが、ファンにとってそんなことは関係なし。ソーシャルネットワーク上では彼に向けた「プレーするならば喝采を送り、ミスを犯すのならば背中を押し、転ぶのならば手を差し伸べよう。何も理解できぬ者は、何も分かってくれるな」とのメッセージが流行したが、カルデロンにあったのはその通りの無条件の愛情である。メディアの間でもそういった論調は存在し、スペイン『マルカ』のアトレティコセクションのチーフ、アルベルト・ロメロ・バルベールは「17歳だったトーレスはエル・ニーニョであり、30歳となった現在もエル・ニーニョ。未来永劫、エル・ニーニョなのである。そして我々は彼のことをいつまでだって信じなければならない」と述べている。

 トーレスのアトレティコ復帰シーズンの成績は19試合3得点、今季前半戦は24試合2得点と“外部”が期待するような成績を収められず。特に今季のリーガ第4節、アウェーでのエイバル戦でアトレティコ通算99得点を決めてからは、長きにわたる乾きの時期を過ごすことになった。だが第23節、カルデロンにエイバルを迎えた試合で、ようやく呪いを解くことに成功。後半30分にヤニック・カラスコとの交代でピッチに立つと、46分にビエットの折り返しに反応して、体勢を崩しながらボールを押し込んだ。カルデロンの電光掲示板には2001年6月2日にトップチームでの初ゴールを決めた姿、そして今現在の姿と、二人のトーレスが「100得点」の言葉と一緒に映し出され、試合終了後、掲示板の真下にある階段の踊り場はその画像を撮影しようとするファンでごった返した。翌日の『マルカ』1面の見出しに躍るは、「魂とともに100ゴール」の活字。そしてバルベーロは彼が担当するアトレティコの試合レポートで、こう記した。

 「親愛なるフェルナンドへ。幸せというものは、善良なる君のアトレティコの人々が昨日過ごした時間に、とても似ているのだろうね。そのゴールはチームに貢献するものではなかった。後半アディショナルタイム、君たちはもう勝利を手中にしていたのだから。けれども、今ここで記していることに心を動かされない人々がいるとすれば、本当に哀れなことだろう。そのほかの人々には、君がそれを記録したときに、カルデロンで爆発的な歓喜が生まれたことを、心を込めて伝えたい。あの瞬間、ロヒブランコ(赤白)の人々ほど巨大な喜びに包まれた人間はいなかっただろう。そう、それは15年前に生まれた愛が単なる一目惚れではなく、本物であったことの証明だ。良い時期も悪い時期も、たとえ離れていたって、彼らは君が誇らしく、君も彼らを誇らしく感じていた。プロフェッショナルであることに背き、私が感極まっていることは謝ろう。だが、君はこう記すに値するんだよ、フェルナンド。もし、この段落を理解できない人々がいるならば、100回同じことを語らせてもらおう。そして、その数字を記すことでどうか私を、いや、私たちのことを分かってほしい。フェルナンド、すべてにありがとう。100回、ありがとう」

 今のトーレスは、かつての勢いを取り戻したようにゴールを重ねている。エイバル戦以降の12試合で祝福された回数は107回まで増え、グラナダ戦までの4試合連続得点はリヴァプールに在籍していた2009~10シーズン以来。レンタル期間は今季限りとなっている同選手だが、この活躍を受けたアトレティコが新契約を結ぶとの報道も盛んにされている状況だ。

 今年で32歳となったトーレスだが、そのプレースタイル、チームから求められている役割はこれまでと変わらず、送られるスルーパスから相手の最終ラインを抜け出して、ゴールをかっさらうというもの。2010年W杯南アフリカ大会出場のため、2度にわたって右ひざ半月板の手術を受けた影響によって以前ほどのスピードはない。それでも機を見た動き出しはさすがで、現在はこれまでより前めでプレーするコケとの抜群の連携も助力となっている。そろそろ老獪なプレーも身に付けたらどうか、との考えが頭をよぎったこともあるが、前線から積極的にプレッシングを仕掛ける様を含め、エル・ニーニョらしいひたむきさは、やはり心を打つものがある。

 「学校では、ほぼすべてのクラスメートがレアル・マドリードのファンだった。僕はそのことに納得がいかず、いつも祖父の下へ駆け寄ったよ。祖父は簡単な言葉を使いながら、アトレティコのことを語ってくれた。マドリードの紋章である熊がエンブレムに入っていることなど、アトレティコが僕たちマドリード市民にとって、どのような存在かを真剣に説明してくれたんだ。祖父から何度も言って聞かされたのは、努力を怠らず、決してあきらめることなく戦い続けることだった。誰かの助けなど必要とせず、強大な権力に立ち向かうチームこそがアトレティコ。だから祖父、そして僕は、永遠にこのクラブの人間であり続けるんだ」

 今は亡き祖父エウラリオから、アトレティコの人間としての心得を教え込まれたトーレス。今、彼が必死に追いかけているのは、これまで経験したことのないアトレティコでのタイトル獲得だ。「1996年のリーガと国王杯のドブレテ(二冠)は、ファンとして経験した。そして今の夢は選手としてそれを経験することにほかならない」。今季のドブレテはリーガ、そしてロヒブランコのすべての人間が渇望するチャンピオンズリーグの優勝によって達成されるが、果たして…。疑いの余地などないのは、アトレティコの人々とトーレスによる家族の、愛の物語にバッドエンドなど存在しないということだろう。エル・ニーニョは、今日も走り続ける。(江間慎一郎=マドリード通信員)

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