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【コラム】海外通信員

32年の時を経て ペルーW杯出場の裏側

[ 2017年11月24日 13:15 ]

チリ代表リカルド・ガレカ監督
Photo By AP

 間もなくサッカーW杯ロシア大会の組み合わせ抽選会が行なわれる。出場する32カ国のうち、最後に出場権を得たのは南米のペルー。大陸間プレーオフでニュージーランドに勝ち、36年ぶりの本大会出場を決めるという悲願達成の立役者となったのは、アルゼンチン人のリカルド・ガレカ監督だった。

 長身で細身、ブロンドのロングヘアという一度見たら忘れられない独特の風貌は、日本でも一昔前から海外のサッカーに興味を抱いていたファンの方なら覚えていることだろう。82年に開催されたゼロックス・スーパーサッカーで、ボカ・ジュニオルスが全日本代表と対戦した際、ガレカはチームきってのストライカーとしてディエゴ・マラドーナと一緒に日本の観客の前でプレーを披露している。

 そしてアルゼンチン代表監督がセサル・ルイス・メノッティからカルロス・ビラルドに代わり、メンバーも大幅に入れ替えられた際、ガレカはマリオ・ケンペスの後継者として「代表の9番」を任されることになった。83年のコパ・アメリカでは、アルゼンチンが13年ぶりにブラジルに勝つという歴史的勝利を遂げた試合で決勝点となった唯一のゴールをマーク。その後も順調に代表のレギュラーとして定着…となるはずだったのだが、ボカから宿敵リーベルプレートに「禁断の移籍」をした後、ビラルド監督の構想から外れてしまうことに。86年W杯メキシコ大会の予選では、全6試合のうち2試合しか出場していない。ボカのサポーターからは「裏切り者」と呼ばれただけでなく「ガレカは病気だ、死んでしまえ」という残酷な歌まで歌われ、心を深く傷つけられてしまった。

 だが、そのたった2試合しかプレーしなかった予選で、ガレカはアルゼンチンを予選敗退の悲劇から救う貴重なゴールを決めている。「負ければプレーオフ行き」という瀬戸際に立たされたペルーとの最終戦でベンチスタートとなったガレカは、1−2とリードされていた60分にDFフリアン・カミーノ(2014年W杯でアルゼンチン代表のアシスタントコーチとして出場)に代わって入り、その20分後に同点ゴールを押し込んだ。

 このガレカのゴールはアルゼンチンにW杯への切符をもたらし、ペルーをプレーオフに送ることとなった。ペルーはプレーオフでチリに敗れてメキシコ行きの夢を絶たれただけでなく、その後30年以上の間予選を通過できないトラウマに苦しめられることになる。

 母国にW杯出場権をもたらす貴重なゴールを決めたにもかかわらず、ガレカは本大会に出場するメンバーには選ばれなかった。当時「マラドーナの後継者」として注目を浴びていたクラウディオ・ボルギ(1985年トヨタカップでアルヘンティノス・ジュニオルスの一員として来日)との競争に負けた形となったが、ガレカは納得が行かず、ビラルド監督に対する不信感を募らせたという。

 同大会でアルゼンチンが優勝し、元チームメイトで友人でもあるマラドーナがW杯のトロフィーを掲げる姿に感動しながらも、自分がその場にいなかった悔しさは「今でも忘れられない」と語るガレカ。彼にとって、W杯出場は「叶わぬ夢」に終わってしまっていた。

 だが、あの時ペルーを闇に陥れたガレカが、32年後にペルーをW杯に導いた。2015年3月に代表監督に就任したあと、2度のコパ・アメリカを「テストの場」と位置づけ、プレッシングと細かいパスワークでゲームの主導権を取るプレースタイル、そして選手たちに「自分の力を信じる」という信念を植えつけた。その結果、W杯予選では苦戦を強いられつつも終盤に驚異的な巻き返しを見せ、ペルー国民が待ち望んでいたW杯出場を実現させたのだった。

 去る11月20日、ペルーからアルゼンチンに帰国した際、搭乗した飛行機の機長が離陸前の挨拶で「ペルーの全国民を代表してリカルド・ガレカ監督に感謝の意を表したいと思います。本当にありがとうございます」と述べる一幕があった。32年前の屈辱を晴らし、監督としてW杯出場の夢を実現させるガレカ監督のペルーに注目したい。(藤坂ガルシア千鶴=ブエノスアイレス通信員)

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