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Jリーグのホペイロ第1号の死 忘れてはならない日本サッカー発展への多大な貢献

[ 2021年4月14日 08:30 ]

 【大西純一の真相・深層】いまではホペイロと言えば、だれでも「サッカーの用具などを管理する人だ」と理解できる。Jリーグのホペイロ第1号、Jリーグ開幕当時にヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でホペイロを勤めていたベゼーハさんが亡くなった。65歳で、肝臓がんで闘病中だった。小柄でいつもにこにこしながら、クラブハウスの前で選手のスパイクを手入れしていた。片言の日本語も話し、記者にも気さくに話しかけてきた。

 ホペイロという役職は91年に、彼が読売クラブにやってきたときに初めて使われた。日本リーグのチームにも用具係はいた。だが、ブラジルではホペイロは監督のサポート役で、監督が考えた練習メニューに沿ってコーンやゴール、ゼッケン、ボールなどを用意して効率よく練習できるように準備する。選手のスパイクや練習用シューズ、ユニホーム、練習着などの管理をするのも役割だ。Jリーグ開幕を控えて本場ブラジルのプロフェッショナルリズムを浸透させるために、監督やコーチとともに招へいし、側面から日本人選手に本場の流儀を伝えた。ぺぺ監督の信頼も厚かったが、同時に選手にも慕われていた。

 選手がいかにストレスなく試合に臨めるか、まさにプロだった。前泊のホテルに選手のスパイクを持ち込み、風呂場で徹夜で磨いて試合に間に合わせることもあったという。ラモスが試合用のユニホームを1枚もらおうとしたところ「これはクラブのものだから駄目だ」と拒み、大げんかになっても譲らなかったという。それぐらい職務には忠実だった。V川崎には98年まで在籍、01年には浦和でホペイロを勤めた後はブラジルに戻ってグアラニなどでホペイロを勤めていたという。ブラジル選抜のホペイロなどもやったことがあり、ブラジルでもトップクラスのホペイロだった。

 ベゼーハさんが片言の日本語を話したのは、きょうたいが多かったために9歳から熊本県出身の日本人の農家で働いたからだという。日本で仕事ができて喜んでいたと思う。彼のお陰で日本にも用具を管理する重要性などが伝わった。注目されなくても、日本のサッカーの発展に貢献した人がいたことは、忘れないようにしてほしい。

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2021年4月14日のニュース