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転んでも立ち上がる 愛すべき中村俊輔という男

[ 2020年5月17日 06:45 ]

13年、史上初となる2度目のMVPを受賞した中村俊輔
Photo By スポニチ

 【忘れられない1ページ~取材ノートから~垣内一之記者】 スポーツファンの心には深く、刻まれた名場面がある。その現場で本紙記者は何を目撃してきたのか。知られざるエピソードを「取材ノート」からひもとく。「スポーツ編」の第1弾は2013年J1最終節。困難を乗り越え、さまざまな思いを胸に横浜を9年ぶりの頂点へ導こうとした元日本代表MF中村俊輔(当時35歳)の夢は散った。自身の初優勝は逃したが、史上初となる2度目のMVP。誰より輝きを放った一年は、中村が愛されるゆえんを改めて実感したシーズンだった。

 勝てばリーグ優勝が決まるホーム・新潟戦を翌日に控えた2013年11月29日。午前の前日練習を終え、私服に着替えた俊輔から声が掛かった。

 「ちょっと付き合ってよ」

 行き先は横浜市内にある祖母のお墓だった。大一番を前にした緊張感は伝わってきたが、車中では祖母にまつわる秘話も聞かせてもらった。「あのとき本当に降りてきたんだよね」。シドニー五輪の切符をつかんだ99年11月6日のカザフスタン戦(国立)で決めた直接FKのことだった。実は、その日は祖母の誕生日だった。「(ゴールを)決めさせてくれた」。大舞台で、その存在が大きな力になったことを明かしてくれた。

 誰より、何よりも渇望した横浜でのタイトルだった。10年W杯直前に復帰した際、サポーターから「腰掛けか?」と揶揄(やゆ)された。だが、反論はせず「ピッチで応える」と意を決した。W杯本大会ではスタメン落ちの悔しさも味わい、サッカーノートには「MVP」と目標を書き込み「絶対にもう一度輝く」と誓った。11年8月に急性心筋梗塞で亡くなった元チームメート、松田直樹さんへの思いもあった。新人時代から世話になり、何かあれば連絡をくれた、尊敬してやまない大きな存在だった。誰よりもマリノス愛が強かった松田さんにも当然、優勝を約束していた。

 足かけ4年。当初、懐疑的だったサポーターもいつしか「俊輔と優勝したい」と横断幕を掲げ、俊輔も「マリノスを優勝させたい」と思いをさらに強くしていた。悲願に手の届くところまで来た10月、まさかの事態に襲われる。胆石の詰まりが原因で腹部に激痛が走った。胆のう炎だった。約1週間の入院と絶食を強いられ、体重は4キロも減った。残りは2試合。体調は万全にほど遠かった。今思えば、まさに祈る思いだったのだろう。

 それでも、その強い思いはかなわなかった。残り2節、新潟、川崎Fに連敗して夢は散った。最終節終了のホイッスルが鳴った瞬間、ピッチに突っ伏したあの姿。人目をはばからず流した大粒の涙。精神的に極限状態の中で取材ゾーンで真摯(しんし)に対応し「精神的なきつさは(人生で)今日が一番」と漏らした本音。取材メモを読み返すと、当時の情景がよみがえる。02年W杯メンバー落選などこれまで数々の試練を乗り越えてきた俊輔が発したこのコメントは、優勝に懸けていた何よりの証だった。

 俊輔の魅力は何と言っても、左足から繰り出されるファンタジーあふれるプレーの数々。ただ、それだけではない。サッカーの神様はこれほどまで試練を与え続けるのか――。そう思いたくもなるが、それをおくびにも出さず、努力を重ね、悔しさをバネに何度も起き上がる姿だ。

 その人間性に周囲は引きつけられる。祖母の墓前に手を合わせる背中…。13年はそんな俊輔の人柄を改めて知ったシーズンだった。

《俊輔の苦闘の歴史》
 ★横浜ユース 倍率50倍の入団テストに合格した横浜Jrユースで2度の全国制覇を経験も、ユース昇格がかなわず桐光学園に進学。
 ★高校 桐光学園(神奈川)3年だった96年度の全国選手権で決勝に進出も、元日本代表FW北嶋を擁する市船橋(千葉)に1―2で敗れて準優勝に終わった。
 ★W杯 02年日韓大会では日本代表メンバー入りが有力視されていたが、トルシエ監督の選考基準に合わず落選。初出場した06年ドイツ大会は司令塔を務めたが体調を崩すなどして1次リーグ敗退。10年の南アフリカ大会はアジア予選では絶対的エースも、本大会はケガの影響や本田の台頭などもあり、オランダ戦の途中出場だけに終わった。
 ★Jリーグ 00年に日本人最年少となる22歳で年間MVPに輝いたが、鹿島とのチャンピオンシップでは2戦ともフル出場しながら、2戦合計で0―3で敗れて準優勝。

《自らメニューを組む 41歳情熱はそのまま》
 41歳の今もサッカーへの情熱は決して衰えることはない。J2町田のMF吉尾らと行った今季に向けた1月の自主トレでも、さながらフィジカルコーチのように自らマーカーなどを置き、独自メニューで練習に励む姿があった。指導者B級ライセンスを取得した17年以降、自主トレは全て、自らメニューを組んで行っているという。

 ここ数年、特に悩まされた右足首痛も、試行錯誤の末、独自のケア法を確立させた。俊輔をそれほどまでに突き動かしているのは、ブレないサッカーへの思い。「(治療に)体が動いたということはまだやれる、やりたいという証拠」。そう話す顔は、年と経験を重ね熟練味を増した以外、最初に知り合った25歳の時と何ら変わらない。

 ◆中村 俊輔(なかむら・しゅんすけ)1978年(昭53)6月24日生まれ、神奈川県横浜市出身の41歳。97年に桐光学園から横浜入り。02年からレジーナ、セルティック、エスパニョールを経て10年に横浜復帰。17年に磐田に移籍し、昨年7月に横浜FCに移籍しクラブの13年ぶりJ1昇格に貢献。00年と13年にJリーグMVP。J1通算386試合73得点。国際Aマッチ通算98試合24得点。W杯は06年、10年に2度出場。1メートル78、71キロ。利き足は左。

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