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【楢崎正剛選手 引退会見2】横浜F消滅、あってはならない出来事だった

[ 2019年1月11日 16:21 ]

<名古屋・楢崎引退会見>横浜F消滅時、同じく名古屋に移籍した山口素弘氏(右)から花束を贈られ記念撮影する楢崎正剛選手(撮影・椎名 航)
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 サッカーの元日本代表で、名古屋GK楢崎正剛選手(42)が11日、名古屋市内で引退記者会見を行った。4度のW杯出場、J1リーグ最多631試合出場記録を持つレジェンドは、プロキャリアを始めた横浜Fの消滅について「あってはならない出来事。二度と他のクラブではあってほしくない」と心境を話した。

 会見での一問一答は以下の通り。

 ――1995年に横浜Fに加入。当時プロという世界を経験して感じたことは。

 「新人で入団したときは無我夢中。周りは何も見えていない。上手くなりたい、試合に出たい、テレビで見ているスターと同じステージに立ちたい。1年目からチャンスをいただきましたが、おんぶに抱っこで、早く信頼を得て、ピッチで一番輝く選手でいたかった。苦労よりも新しいものを吸収、プロの水に慣れよう、早くチームに貢献しようという、その気持ちしかなかった」

 ――順調なプロスタートだった。

 「順調かどうかはキャリアを終えないと評価できないと思っていた。どうやったら上手くなるか、一番になるか、そればかり考えていた」

 ――98年〜99年は大きな転機に。横浜Fが消滅。

 「サッカー界にとっては事件。あってはならない出来事だったと思う。チームがなくなる、これからどうする?しかなかった。撤回に向けて活動したが、選手は無力と感じた。僕たちの手の届かないところで色んなことが決められていた。色んな人に支えられて僕たちはあるけど、色んなことで壊されると思った。二度と他のクラブではあってほしくない」

 ――名古屋で20年のキャリア。

 「上手く行かなかった方が多かった。万年、中位、下位争い。目立った成績を残していない中でリーグ王者になったことは、それを吹き飛ばす達成感はあった。喜んでいる姿を見るのは嬉しかった。一番印象に残っている」

 ――GKで初のMVP。どんなチームだった?

 「ストイコビッチ監督3年目で、監督の求めるモノが一番浸透していた。選手も的確な補強だったし、バランス良くチーム編成が行われていた。クラブも一丸だった。プレーに専念できる環境だった」

 ――よく止めたシーズンだった

 「屈強なDFがいましたし、打たれても僕が止めれば良いとは思っていなかったが、監督がそう言っていたので、自分の仕事はそれだと思っていた。頭がクリアになってプレーできた。個人の賞をもらえるくらい活躍をできたかといえば、それは前に立っている選手たちのおかげだったと思う」

 ――現役時代に大事にしていたことは?

 「毎日のトレーニング。全て自信を持って試合に臨めるか。それは日々のトレーニングだった。自分の理想に程遠いと思ってやっていた。まだまだと思っていた。理想には近づけないまま終わってしまう。そういう気持ちがあったからこそ…続けられた」

 ――日本代表でも活躍。思い出に残る試合は。

 「聞かれるだろうと思って思い返したが、絞れなかった。Jリーグのデビュー戦、しびれる試合は2年目の鹿島戦。日産スタジアムのこけら落とし、代表初出場の試合。グランパスでの優勝を決めた試合。降格になった試合。いっぱいありすぎる。でもW杯で初勝利を掴んだロシア戦は印象深いですね」

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