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鹿島DF昌子源 スーパーかヘタレか…迷い断ち日本の壁に

[ 2018年5月17日 10:30 ]

ロシア代表候補 青き原点(4)

米子北高3年時の沖縄総体・流経大柏戦での昌子
Photo By スポニチ

 結婚式の祝辞で、米子北高の城市徳之監督(現総監督)は教え子に言葉を贈った。

 「ガンバで苦しい思いをしたこと。北高でつらい思いをしたことが、源の原点だから。それがなかったら今はない。それは覚えといてほしい」

 強い精神力で鹿島のDFラインを率いるDF昌子源(25)には一度、サッカーから離れた過去がある。

 小4からFCフレスカ神戸で始めたサッカー。持ち前の能力で、中学生からは隣県のG大阪ジュニアユースに入った。けれど人間関係が原因で、3年のはじめにやめてしまう。夜中に遊びに行き、明け方に帰ることもあるなど生活も荒れた。

 「高校には行かへん。俺、大工にでもなるわ」。そう言いだす息子を父の力さん(55)は「大工に“でも”ってどういう意味や」と本気で叱った一方、本心は分かっていた。知人の米子北高の中村真吾コーチ(現監督)から「一度来てみませんか?」と誘いがあったのはそんな折だった。

 「向こう行ったってサッカーなんかせえへんからな」。母の直美さん(55)の運転で向かった米子。一緒に行けない力さんは、かたくなな息子に内緒で、車内に練習着を忍ばせるよう妻に頼んでいた。誘われて久々にボールを蹴った時、「顔が晴れ晴れしていたらしいです」と力さんは目を細めた。

 「最初はうちから逃げ出したかったと思いますよ」。城市監督はおちゃめに笑う。高校生活はとにかく走り、叱られた毎日。当時は100メートル×100本のダッシュもザラで部活特有の厳しさに「(実家に)帰りたい」と言いだすこともあった。

 「おまえに真ん中はないわ。スーパーになるか、へたれになるか。どっちか選択せい!」。高い技術力を認めていたからこそ監督が迫った時、昌子は「スーパーになりたいです」と返した。1年の後半にFWからセンターバックへと転向。2年の全国総体から主力に定着し準優勝を果たすと迷いは消えていった。

 3年間担任をした山崎治氏(60=現教頭)には「僕にとっては一生の宝です」と誇る言葉がある。結婚式。歩み寄ってきた花婿の教え子は言った。「先生、人間って変われるんですよね」。それはまさに高校のホームルームの時間に、先生が昌子に問いかけた言葉。W杯までの道は近い。はい上がり生まれ変わった3年間が、全ての出発点だった。(波多野 詩菜)

 ◆昌子 源(しょうじ・げん)1992年(平4)12月11日生まれ、神戸市出身の25歳。米子北高から11年鹿島加入。国際Aマッチは15年3月31日の親善試合ウズベキスタン戦でデビューし、通算11試合出場1得点。J1通算150試合出場7得点。父の力さんは姫路独協大サッカー部の男子監督、女子総監督。母の直美さんはミキハウスにも所属したソフトボールの元実業団選手。1メートル82、74キロ。

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