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宇佐美「オレはこんなもん」自らの限界知って変わった戦い方 W杯へも気負いなし

[ 2018年4月25日 10:10 ]

ドイツ2部のデュッセルドルフに所属する宇佐美(右)
Photo By 共同

 サッカーのW杯ロシア大会開幕まで50日。日本代表23人のメンバー入りへ最後のアピールが続く中、関西育ちの選手も目の色を変えている。西野朗監督(63)の薫陶を受けたFW宇佐美貴史(25=デュッセルドルフ)も大舞台を目指している。

 才能豊かな92年生まれが集まった「プラチナ世代」の筆頭格も、25歳になった。紆余(うよ)曲折を経た今、宇佐美が口にしたのは意外な言葉だった。

 「オレはこんなもんなんや、と強く感じられた。自分の限界を見た感じ。アウクスブルクにいたときに自分の無力さ、レベルの低さを感じた。えぐいやつらをベンチから見ていて、壁の高さと世界の広さと自分のショボさを痛感できた。違う感性が芽生えた」

 バイエルン・ミュンヘンではリーグ3試合出場のみ。翌12年に期限付き移籍したホッフェンハイムでも20試合2得点と定位置をつかめず、失意を抱えたままG大阪に13年6月に復帰した。3冠を獲得し、自信を取り戻した16年にアウクスブルクへ完全移籍。だがリーグ11試合0得点。17年夏にドイツ2部リーグへ戦いの場を移し、そこでも多くのチャンスを与えられない日々を過ごした。G大阪からは移籍市場が開くたびに“帰って来い”とラブコール。帰国を考えたこともあった。

 「でも意地です。1回目に(日本に)帰る時が“絶対に(欧州へ)戻る”のテンションで帰ったんで。アウクスブルクの1年が一番キツかったけど奮い立たせたのは意地」

 選んだのは戦いのステージを下げること。17年4月22日のフランクフルト戦が転機だった。守備で奔走したにもかかわらず後半12分で交代。その後、逆転負け。残留争いを続けるチームの敗戦の責任を負わされるかのように次戦ハンブルガー戦はベンチ外になった。

 「大前提として書いてほしいのが、僕の力不足は理解している。できるヤツはできる。でも僕はできなかった。シャトルランをするために試合に出ていた。サッカーの感覚を呼び戻したかった」

 だが苦しんだアウクスブルクの経験が、実は蓄えになっていた。

 「フォルトゥナ(デュッセルドルフ)に来て守備ができるぞという感覚だった。足を引っ張らないだけのベースができていた」

 もう一つがメンタルの変化だった。

 「(ドイツへ)戻った時、ブンデスのレベルが上がっていた。自分の小ささを認めざるを得なかった。当然、諦めてはいない。ただ今までの壁の壊し方はどうなんだ、と。能力があるヤツは5秒くらいで上れるかもしれない。でも僕は能力がないからよじ登る方法を考えたり、下を削るとか、壁に穴をあけるとか…戦い方を考えないと無理。そう思わせてくれた1年だった。自分をどれだけ大きくしていくかに集中できるようになった」

 G大阪でプロデビューした時、教えを受けた西野監督が思わぬタイミングで日本代表の指揮官になった。

 「今はとにかく残り3試合に全てをささげている。1部に上がれるようにできることは全てやるというモチベーション。別に監督に向けて、日本代表に入るためとは今は考えてないし、そういう情報も少しシャットアウトしている。メンタルがブレることは全くない」

 自分の弱さを認め、向き合い、そして成長への糧にした。その小さな努力が3月の4試合連続得点と結実し、日本代表復帰へとつながった。ロシアW杯も手に届く位置にある。

 「まず出たい。でも出られなくても、やってきたことが折れることはない。また、そこから始めれば良い。気負いはないですよ」

 ◆宇佐美 貴史(うさみ・たかし)1992年(平4)5月6日生まれ、京都府長岡京市出身の25歳。G大阪下部組織を経て、高校2年時の09年にトップチーム昇格。同年5月20日のACL・FCソウル戦でプロ初出場を果たす。11年6月に日本代表初選出。ハリルホジッチ前監督時代の15年3月37日のキリン杯チュニジア戦でA代表デビュー。国際Aマッチ通算21試合、3得点。1メートル78、72キロ。右利き。

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