×

多才だった岡野俊一郎さん サッカーに和菓子もお酒も…教えてもらった

[ 2017年5月26日 10:30 ]

24日に行われた岡野俊一郎さんをしのぶ会で、祭壇に置かれた遺影
Photo By 共同

 日本サッカー協会の会長や国際オリンピック委員会(IOC)の委員などを務め、今年2月2日に85歳で亡くなった岡野俊一郎さんのお別れ会「岡野俊一郎を偲ぶ会 〜雲を抜けて、太陽へ!〜」が5月24日に都内で開催された。日本のスポーツ界の発展に力を注いだ人だけに多くの人が別れを惜しんだ。

 岡野さんにはいろいろなことを教わったが、これほど多才な人はいなかった。サッカー選手としては日本代表に選ばれ、指導者としては日本代表監督、コーチなどを歴任。クラマーさんの通訳も任されたほどサッカーの技術についての知識があった。東大卒業後は現役選手としてクラブチームなどでプレーしながら審判員としても活動し、国際試合で主審を務めたこともあった。サッカーのテレビ解説者の第1号でもあり、マルチに活躍した。ほかにもスキーは日本代表級の腕前だった。麻雀もプロ級で、香港や台湾、マレーシアの協会関係者と卓を囲んだという。

 岡野さんは和菓子や上野についても詳しかった。上野で生まれ、上野で育ち、老舗和菓子店「岡埜栄泉」の5代目でもあった。同店の豆大福は看板商品だが、岡野さんによると、大福は元々植木職人などが庭の手入れに来たとき、“三時のおやつ”として出したものだという。「だからおなかが膨らむようにあんこがたくさん入っているんだ。和菓子には上、中、下、駄菓子とあって大福は元々は駄菓子だった」と話してくれた。

 上野の歴史にも詳しく、上野一帯は元々寛永寺を中心に、周囲に末寺がたくさんあり、葬式まんじゅうなどを納めるために、一体に和菓子店があったという。ちなみに「上野駅前に岡埜栄泉が開業したのではなく、ウチの店の前に上野駅ができた」と言うのが岡野さんの十八番だった。

 お酒がめっぽう強く、東大7年の時、上野駅前の自宅の一角にバーを開業、けっこう繁盛したそうだ。和菓子店の店主でありながら甘いものが苦手だったことは知られていたが、魚も大の苦手だった。子供の頃は神奈川県葉山に別荘があり、夏は毎日のように海水浴をして海に親しんでいたが、なぜか食べるのは駄目。「マグロの赤身とアジのたたきぐらいしか食べられない」と言っていた。寿司店に行っても注文するのはマグロと貝類だけ。FIFAやIOCの友人からは「お前は本当に日本人か」と言われたという。

 国際人だったからこそ、メキシコ五輪でチームを銅メダルに導き、長野五輪を招致し、2002年W杯を招致することができた。上野駅を見下ろせるオフィスで岡野さんから聞いた話は風化することはない。(大西 純一)

続きを表示

2017年5月26日のニュース