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ぶれないリーダーだった岡野さん、解任論あったトルシエ監督続投で見せた慧眼

[ 2017年2月16日 09:00 ]

98年、トルシエ氏(右)が日本代表の監督に就任し、握手をかわす岡野俊一郎さん
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 【福永稔彦のアンプレアブル】日本サッカー協会会長や国際オリンピック委員会委員などを歴任した岡野俊一郎さんが2月2日に85歳で亡くなった。サッカー日本代表コーチとして参加した68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得。98年長野五輪、02年サッカーW杯日韓大会の招致にも尽力した。スポーツ界に多くの功績を残した方だ。

 私が頻繁に取材したのは日本サッカー協会会長時代の4年間である。98年W杯フランス大会後、長沼健氏(08年死去)の後任として就任した岡野さんは、02年W杯日韓大会の成功に貢献した。

 同じくサッカー界出身の川淵三郎氏のように大胆な改革を断行するタイプではなかった。川淵氏が「動」なら岡野さんは「静」。ただし周囲から批判を受けても自分が正しいと思うことは貫き通すという意味に置いては川淵氏と同じようにぶれないリーダーだった。

 印象に残っているのはフランス人のフィリップ・トルシエ日本代表監督の解任騒動。トルシエ監督は98年から2年契約を結んだ。00年6月に契約更新の時期を迎えたが、成績不振で解任論が浮上した。サッカー協会やJリーグを公然と批判する過激な性格もあり解任論に拍車がかかっていた。

 しかし岡野さんはトルシエ監督の続投を決めた。当時、複数の協会幹部から「みんな監督を代えた方がいいと言っているけど、岡野さんが聞いてくれない」という声を聞いた。反対を押し切っての独断だった。

 岡野さんは小野伸二、稲本潤一ら若い選手を起用していたトルシエ監督のチーム作りを評価していた。その時はまだ結果に結びついていなかったが、2年後のW杯では花を咲かせてくれると信じていた。その慧眼には恐れ入るばかりである。

 東大卒で語学堪能で頭脳明晰。エリート、堅物という先入観を持っていたが、接する時間が増えるほど温かくて気取らない人間味にあふれた人であることが分かった。

 W杯日韓大会の前年に韓国の釜山で組み合わせ抽選会が行われた。その際、国際サッカー連盟(FIFA)の会議が開かれるホテルで2人きりで話す機会があった。喫茶スペースで向かい合うと、岡野さんは「せっかく韓国に来たんだからこれにしましょう」と言って高麗人参茶を注文し、私もそれにならった。

 話題はサッカーだけでなかった。健康のため水泳をやっていることなどプライベートなことも明かした。内容は伏せるが、W杯関連の重要な情報もこっそり教えてくれた。1時間以上たっていたと思う。席を立ち上がった時、料金の支払いを申し出ると岡野さんは「いいの?」とほほ笑んだ。わずかな金額だったが、なんだか岡野さんとの距離が縮まった気がした。

 お酒が好きだった岡野さん。サッカー協会会長を退任して数年たった頃、あるパーティーで顔を合わせた際に「今度、飲みに来なさい」と誘われた。その約束を果たせなかった。そして3年後の東京五輪を見ることができない岡野さんの無念を思うとさらに胸が痛む。(専門委員)

 ◆福永 稔彦(ふくなが・としひこ)1965年、宮崎県生まれ。宮崎・日向高時代は野球部。立大卒。Jリーグが発足した92年から04年までサッカーを担当。一般スポーツデスクなどを経て、15年からゴルフ担当。ゴルフ歴は20年以上。1度だけ70台をマークしたことがある。

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