故障した航空機に乗っていたチームの幸運と不運 残酷なまでの運命の違い…

[ 2016年12月5日 10:00 ]

本拠地で亡くなった選手たちの告別式を行ったシャペコエンセ(AP)
Photo By AP

 【高柳昌弥のスポーツ・イン・USA】胸が痛むニュースだった。パソコンのモニターに続々と入ってくる通信社からの墜落現場の写真。よくぞ生存者がいたと思ったが、ブラジルのサッカークラブ「シャペコエンセ」を襲った悲劇は世界を震撼させた。

 このような事故が起こると必ず求められるのが過去の例。かつて何度か書いたこともあったので、その記事を掘り起こしながら私も紙面制作に加わった。

 墜落事故は多くの命を奪う。スポーツ界でも同じ悲劇が何度も起こった。だから似たような事故の記事を探すと、常に死者の数に目が止まる。ただしチャーター機もしくは専用機で、機体に故障もしくは損傷が発生して滑走路への着陸が不可能となったケースで、燃料切れだったにもかかわらず全員が無事だったという出来事がスポーツ界には一例だけある。それが1960年1月18日、NBAファイナル制覇16回を誇るレイカーズに起こった“奇跡の生還”だった。

 当時の本拠地は現在のロサンゼルスではなくミネアポリス。選手たちを乗せた専用機(貨物機のDC―3を改造したもの)は遠征先のセントルイスから北への進路をとっていた。ところが電気系統が故障。無線の電源を確保できず、コンパスも機能しなくなった。燃料はあったので、Uターンしてセントルイスにひき返せばよかったのでは?と思われるかもしれない。しかし外部との連絡ができないままに航路を変更すると多くの危険が伴う。現在ならテロリストにハイジャックされたと疑われるだろう。当時のウルマン機長の判断はこうだった。

 「引き返してもし操縦不能になったら墜落場所がセントルイスの市街となる可能性がある。それはできない」。そしてそのままミネアポリスを目指した。たぶん最悪の場合は誰もいない荒野へ突っ込む覚悟だったのだろう。そしてコックピットの窓を開け、北極星を探して方角と機体の位置を割り出した。

 ただし空を“迷走”したために燃料が少なくなった。そこで同機長はいったんハイウエーへの緊急着陸を決断。高度を30メートルまで下げた。風が強く途中で木に衝突する寸前だったと言う。ここでギフォード副操縦士が「道路には石や溝があって危険です。走行車両もあります。しかし今、ひらめきました」と言わなければこの専用機は大破したか、道路を走っていた車両を破壊したか、あるいはその両方のどれかだっただろう。

 実家が農家だったギフォード副操縦士の脳裏に浮かんだのはこの季節のトウモロコシ畑。「1月だからきっと雪が積もっている」と判断したのだ。ウルマン機長はすぐに高度を上げ、2人で畑を探した。もちろん肉眼。そしてそれとおぼしき場所を見つけた。

 かくしてセントルイス発ミネアポリス行きのDC―3は、アイオワ州キャロルという人口1万人の小さな町にあったトウモロコシ畑に不時着。50センチほど積もった雪がクッション役を果たして選手、コーチ、乗員、そして全長20メートル、両翼29メートルの機体そのものも全部無事だった。

 もしギフォード副操縦士のひらめきがなければ、レイカーズは全選手、全スタッフをここで失った可能性が高く、そしてそれはその後にやってくる栄光の歴史さえもすべて奪いとったはず。だが彼らは最後に「雪」というチームメート?に助けられた。

 今回の墜落現場は南米コロンビアの山間部で、しかも南半球ゆえに今は雪がない。大破した機体の背後に写っていた山肌を見て、2つのチームを取り巻く恐ろしいほどの“運命の差”を感じざるをえなかった。

 同乗していた20人の番記者を含め、亡くなった選手とスタッフは本当に気の毒だと思う。家族、そしてサポーターの悲しみも言葉には表せないほどつらいものだと思う。願わくばシャペコエンセの緑のユニホームを着る選手がこれからもいてほしい。雪をうらむことなく前に進む限り、スタジアムに歓声が戻る日がいつかやってくると信じている。(専門委員)

 ◆高柳 昌弥(たかやなぎ・まさや)1958年、佐賀県嬉野町生まれ。上智大卒。ゴルフ、プロ野球、五輪、NFL、NBAなどを担当。スーパーボウルや、マイケル・ジョーダン全盛時のNBAファイナルなどを取材。50歳以上のシニア・バスケの全国大会に6年連続で出場。

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