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元日本代表コーチ・岡村氏急逝から3年…今こそ“歴史”に光を

[ 2016年5月9日 12:19 ]

 元日本代表コーチの岡村新太郎さんが亡くなって3年が過ぎた。と、言っても、岡村さんを知っている人は少ないかもしれない。日本のサッカーが一番苦しかった1980年代に、森孝慈監督、石井義信監督の下で8年間、日本代表コーチを務め、木村和司らを育てた。近年はJリーグのマッチコミッショナーを務めていたが、2013年4月26日に急死した。

 サッカー御三家の静岡県藤枝市出身で、藤枝東高から法大を経て日本鋼管に入社。テクニシャンのMFとして活躍した。藤枝東高校時代はWMシステムの左インナー、今でいうトップ下のような位置で攻撃の中心、高校総体、国体、高校選手権で優勝し、初の高校3冠に輝いた。法大では主将として総理大臣杯に優勝、日本鋼管(後にNKK、現JFEスチール)でも活躍が期待されたが、慢性腎炎でわずか3年で現役引退した。

 2年間社業に専念した後、コーチとしてチームに復帰。32歳の時に中国遠征した日本選抜のコーチを務めたことが縁で、日本協会の仕事をするようになった。81年から日本ユース代表監督、83年に森監督の就任と同時に日本代表コーチに就任。石井監督に交代した後もコーチとして残り、チームを支えた。

 退任後は法大やNKKの監督を務めたが、同社がJリーグに参加しなかったため、社員だった岡村さんも会社に残り、Jリーグで指導者やフロントとして活躍することはなかった。時々、テレビやラジオの解説者を務めていたが、90年から週に3度透析を受けるようになっていた。

 岡村さんは、よく技術のことを話していた。「今の選手はちゃんとボールを蹴っていない。インステップでバシッと蹴らないと」と、身ぶり、手ぶりを交えて話した。日本代表の香川についても「きちんとボールを蹴っていない」と手厳しい。「彼ならできるはず」の思いがあるからこそだった。

 「マッチコミッショナーをやるようになって、サッカーがよく見えるようになった」と岡村さんは言っていた。「日本のサッカーはもっとよくなる。私なりに提言したい」と、意欲も持っていた。さらに「80年代のことは忘れてはいけない。森さんも精いっぱいやり、力を出し切ったが、勝てなかった。そういうことを伝えていかないと」と、言っていた。

 歴史の重要性は誰もが分かっていること。93年5月のJリーグ開幕をきっかけに急成長した日本のサッカーは、同年10月のドーハの悲劇でW杯まであと一歩と迫り、98年W杯フランス大会で初出場、世界の舞台にたどり着いた。

 68年メキシコ五輪で銅メダルを獲得した後、70~80年代は低迷したが、その時代の日本サッカーを支えた人たちがいたからこそ、今がある。もうすぐJリーグができて四半世紀、Jリーグ開幕後に生まれたJリーガーも増えている。今こそ“歴史”に光を当ててほしい。(記者コラム・大西 純一)

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2016年5月9日のニュース