岡崎ヘッドの原点 小学生時代に“将軍”と磨いたダイブ

[ 2014年5月14日 10:39 ]

ヘディングでゴールを狙う岡崎

 日本代表のルーツを探る連載で、今回はFW岡崎慎司(28=マインツ)を取り上げる。今季欧州主要リーグでプレーした日本人としては1シーズンでの最多得点記録を更新。ザックジャパンのエースストライカーの基礎をつくった小学生時代。そして、近年の進化に迫った。

 「利き足は頭」――。岡崎の座右の銘の原点は小学生時代にあった。ヘディング練習は多いときには一日100本以上。どんなボールにも恐れることはない。とにかく飛び込んだ。

 兵庫県尼崎市で生を受けた岡崎は6歳の時、宝塚市に転居。父・弘晃さん(62)がサッカーをしたいという兄・嵩弘さん(29)と岡崎のために探してきたチームが宝塚JFCだった。現在も同クラブでコーチを務める山村俊一さん(38)は「僕は将軍でしたから」と鬼コーチだったことを明かす。その出会いが日本代表戦士の基礎をつくるスタートラインだった。

 チーム戦術はとにかく蹴って走るサッカー。攻撃一辺倒だった。「10点取られても11点取ればいい」がテーマ。山村さんが特に重視したのがヘディングと走力だった。ヘディング練習では、岡崎は山村さんが上げるクロスに、ひたすら飛び込んだ。時には力任せに上空に蹴り上げたボールをヘディング。「首がいってまうかも」(山村さん)というボールにも岡崎は恐れることはなかった。「終わった後“頭痛い”と言ってましたけどね。それはおまえの当てる位置が悪いからやと言っておきました」。強いシュートを打つための正しい打点、砂のグラウンドでも恐れず飛び込むこと。この感覚は確かに岡崎の体に刻まれた。岡崎の“代名詞”であるダイビングヘッドはここで生まれた。

 ヘディングとともに特長である運動量も、同時に培われた。夏休みに兵庫県篠山市内で行われる2泊3日の合宿では、走りの特訓も行われた。「手を抜いてるヤツがいたら“もう一周”とかね。吐く寸前まで走らせましたね。でも、そのおかげでうちのチームが走り負けることはなかった」と山村さんは振り返る。試合ではボールを奪ったら、低い位置からでもロングボールが飛んでくる。それを得点につなげるためにFWはひたすら相手DFの裏やスペースを見つけて走った。岡崎の武器である労を惜しまないフリーランニング。さらには、裏への飛び出しやポジショニングも、また岡崎には欠かせないものとなった。

 山村さんの指導を受けた岡崎は徐々に頭角を現す。小学4年生の時には、1学年上の世代の試合に出るようになった。ただ、サッカー以外には無頓着だった。宝塚JFCでは7月中に夏休みの宿題を終えなければいけない規則があった。恒例の宿題チェックの日。チームメートが真面目に終わらせて提出する中、岡崎だけはある細工をして逃げ切ろうとした。「最初と真ん中と最後の3ページだけやって出してきたんですよ。“ばれたかー”って言ってましたね。叱っときました。徳川家康の似顔絵を描くというのもありましたけど、完全に“バカ殿”でしたね(笑い)」。現在でもチームメートから愛される“イジられキャラ”。将軍をクスリとさせるのも岡崎だった。

 中学に入ってからは兵庫県選抜としてフランス遠征に行くなど順調に階段を上った。高校は兄の後を追って名門・滝川二高に進学。1年時からレギュラーをつかみ全国選手権で4強入りするなど実績を上げ、3年時には清水、神戸からオファーを受けた。相談を受けた山村さんは「神戸やったら、親元も近いし、甘えるから清水に行け」とアドバイス。その2日後には、岡崎自身から静岡でプロ生活を始める決意を聞いた。

 ◆岡崎 慎司(おかざき・しんじ)1986年(昭61)4月16日、兵庫県尼崎市生まれの28歳。小学2年の時、宝塚JFCでサッカーを始め、中学まで同クラブに所属。滝川二高では3年連続で全国選手権に出場し、1年時に4強入り。05年に清水入りし、11年1月にシュツットガルトに移籍。13年6月からマインツ。08年北京五輪代表。10年W杯南アフリカ大会代表。国際Aマッチ通算73試合38得点(歴代3位)。1メートル74、76キロ。

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