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【素顔の代表 山口蛍】両親離婚、反抗期…父と照らし続けた蛍の光

[ 2014年5月7日 09:52 ]

<C大阪・広州恒大>前線にパスを出す山口蛍
Photo By スポニチ

 父がいたからこそ、幾多の試練を乗り越えることができた。MF山口蛍(23=C大阪)の父・憲一さん(46)はサッカーの手ほどきをしてくれた。そして小学4年生の頃に両親が離婚してからは男手一つで育ててくれた。山口の成長を支えてきた父との強い絆に迫った。

 三重県名張(なばり)市矢川。自然に恵まれた穏やかな場所で、山口は生まれた。「暗闇でも明るい光を放ち続けられますように」という両親の願いから「蛍」と命名された。幼い頃は2歳上の兄・岬さんといつも一緒になって遊び、裏山を駆け回った。「悪ガキだった。近所でもよく怒られていました」と父・憲一さん。水田に水を供給するための貯水池の栓を勝手に抜き、大騒動を起こしたこともあった。

 サッカーを始めたのは社会人チームでプレーしていた憲一さんの影響だった。グラウンドに連れて行くと、見よう見まねでボールを蹴った。「“端っこでボール蹴っとけ”と言って遊ばせていたのが、蛍が初めてサッカーに触れた時だった」(憲一さん)。小学3年生になると、地元クラブチーム「箕曲(みのわ)WEST SC」に入団。プレー経験を買われ、憲一さんもコーチとして迎え入れられた。

 今は豊富な運動量を誇るボランチだが、小学生時代は細かいボールタッチが持ち味のトップ下。ブラジル代表MFロナウジーニョに憧れた。ドリブルで何人も抜き去り、1人で得点を奪ってしまう選手だった。サッカーが楽しくて仕方のなかったそんな頃、ショックを受ける出来事が起きる。

 小学4年生の時に両親が離婚した。「説明したけど、(蛍は)離婚がどういうことか分かっていなかったと思う。徐々に情緒不安定になっていった」。ある日、仕事中だった父のもとに小学校から緊急の電話がかかってきた。「蛍がプールの近くで火を出した」。ボヤ騒ぎを起こしたのだ。憲一さんは「当時は絵を描いても、黒とか赤を使うことが多かった。(離婚の)影響が出ていた」と振り返る。

 父は、できる限りを尽くす決心をする。サラリーマンとして大阪の会社まで通勤していたが、2人の息子と過ごす時間を確保するため辞職。地元でアルバイトを掛け持ちし、朝は新聞配達、昼は息子たちとボールを蹴り、夜はバーテンダーとして働き生計を立てた。サッカーの練習を終えると、親子3人で父が働くバーに向かい、息子たちは近くに止めたワンボックスカーで寝る時もあった。決して余裕はなかったが、サッカーで強く結び付いた家族だった。

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