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【素顔の代表 大迫勇也2】“最高の場”求めフィジカル強化

[ 2014年4月30日 11:00 ]

鹿児島城西高時代の大迫勇也

 大平監督の体当たり指導も実り、中学3年時に初めてU―15日本代表に選出された。同世代のトップクラスの選手とプレーすることでフィジカル面の重要性を痛感。体幹トレなどに加えて、食事の量を増やすことも意識するようになり、焼き肉店でご飯を16杯おかわりした伝説も持つ。大平監督から「強さだけでなく柔軟性も大切」とアドバイスを受けてからは、風呂上がりのストレッチも欠かさなかった。父が野球、母がバレーボール経験者というスポーツ一家の遺伝子もあり、強くてしなやかな体が養われていった。

 鹿児島城西高時代に体幹の強さを競うため、練習で相撲のメニューが組まれたことがある。引き技や投げ技はなしで、土俵内で押し合うだけの特別ルール。大迫は自分よりも5センチ以上も背の高いGKや、重量級の教員を相手にしても連戦連勝だった。小久保悟監督(46)は「誰が押しても大迫はビクともしなかった。強さはポストプレーで生きており、高校レベルの試合では片手で軽々と相手を押さえていた」と振り返る。

 順調にステップアップした大迫だが、過去には2度の大きな挫折を味わっている。07年U―17W杯、12年ロンドン五輪と2度の世界大会でメンバーから落選。ともにアジア予選では主力として本大会切符獲得に貢献しただけに、落胆は大きかった。しかも、ロンドン五輪はメンバー発表の前日に自身の後援会が発足し、大々的な壮行会も開催。壮行会後に食事をともにした小久保監督には「これで選ばれなかったらしゃれにならないですね」と漏らしていたが、それが現実となった。

 プロ入り時は「将来、海外でプレーするための最良のクラブ」と鹿島を選択。1月にドイツ2部の1860ミュンヘンに移籍した時は首脳陣から出場機会を約束されたことが決め手だった。子供の頃からサッカーができる最高の場を求めてきた。だからこそ世界最高峰のW杯は悲願。薩摩の国で培った強じんなボディーを武器にブラジルに乗り込む。

 ◆大迫 勇也(おおさこ・ゆうや)1990年(平2)5月18日生まれ、鹿児島県出身の23歳。鹿児島城西高3年時に全国高校選手権で1大会最多得点記録となる10得点をマーク。準々決勝の滝川二戦では2得点を挙げ、試合後に相手DFが号泣しながら発した「大迫、半端ないって」との言葉が有名になった。09年に鹿島に入団し、14年からドイツ2部1860ミュンヘンに所属。Jリーグ通算139試合40得点。13年7月21日の中国戦でA代表デビューし、国際Aマッチ通算7試合3得点。3月にモデルの三輪麻未と入籍。右利き。1メートル82、73キロ。血液型O。

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