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【メダリストは見た】小野喬氏、4年後の東京へメッセージ

[ 2016年8月23日 08:20 ]

2020年東京五輪を紹介するセレモニーで登場した「東京で会いましょう」のメッセージ

 夜空にきらめく聖火が静かに消え、リオデジャネイロ五輪が閉幕した。閉会式では五輪旗がIOCのバッハ会長から小池百合子都知事に手渡され、リオの興奮はしっかりと東京に受け継がれた。現役時代に体操競技で金メダル5個を含む13個のメダルを獲得。「鬼に金棒、小野に鉄棒」と言われ、52年前の東京五輪で日本選手団の主将を務めたレジェンド、小野喬氏(85)も万感の思いで消えゆく聖火を見つめ、4年後の東京へ向けて熱いメッセージを送った。

 閉会式での日本選手団の笑顔が印象的でした。どの顔にも全力を尽くしたすがすがしさがあふれていた。これがオリンピック、これがスポーツの持つ魅力なんですね。4年後はこの喜びを選手だけでなく、ぜひ日本全体で分かち合いましょう。

 日本選手は本当によく頑張りました。テレビでいろいろな競技を見ましたが、個人的にはやはり体操の内村選手が一番印象に残りました。私にも経験がありますが、体操選手にとって団体戦は特別で、個人よりまず団体というのが全員の気持ちです。それだけ重圧もかかりますが、内村選手の表情からは「必ずやり遂げる」という強い気持ちがひしひしと伝わってきました。重圧に打ち勝って団体で金メダルを手にした選手たちは本当に素晴らしいと思います。

 そして女子レスリングの吉田選手。惜しくも銀メダルでしたが、最後まで全力で頑張ってくれました。私も東京五輪で選手団の主将を務めたので責任の重さはよく分かります。主将と言っても直接他の選手を励ますことはできないので、とにかく自分の競技でベストを尽くすことだけを考えました。特に体操は大会の前半に行われるので、自分がメダルを獲ってみんなに勢いをつけなくてはという気持ちが凄く強かった。吉田選手は出番が大会の後半だったので、それが少し重圧になったのかもしれません。

 私は東京の前の60年ローマ大会で引退するつもりでいました。33歳の吉田選手よりは少し若かったとはいえ、当時29歳。体力的にはすでにピークを過ぎていました。ところが当時の体操協会の役員の方から「次は東京だからもう少しやってもらえないか」と頼まれ、もう一度頑張ることになりました。そうは言っても当時は会社勤めで仕事が忙しく、練習どころではなかった。今の選手のようにプロ契約なんてものは当時はありません。唯一会社から与えられた特別待遇は残業が免除になっただけ。昼間は普通に仕事をして、練習は夜から。ずっとそんな生活が続きました。

 極めつきが東京五輪代表を決める最終選考会です。大会直前に管理職になるための研修が1週間行われることになったのです。朝早くから夜8時まで研修で、練習が全然できない。仕方なく昼休みの間にタクシーで国立競技場の体育館に駆けつけ、30分だけ練習するようにしました。代表から落選するんじゃないかともう必死でしたね。

 かろうじて代表には食い込んだものの、本番を前にさらなるアクシデントに見舞われました。もう年も33歳。遅れを取り戻そうと無理して練習したら、右肩を痛めて腕が上がらなくなってしまった。団体の規定演技は何とか乗り切ったものの、2日後の自由演技の時には痛くてたまらない。仕方なく麻酔の注射を打ってもらったら、今度は感覚がなくなってしまった。午前の最初の試技はつり輪。ぶら下がってみると全然感覚がない。跳馬、平行棒と続くうちに痛みはどんどんひどくなり、昼休みの食事の時にはとうとう箸も持てなくなりました。左手に箸を持って他の選手に食べさせてもらいましたが、さすがにこれでは夜の演技はできない。マッサージをやってもダメで、急きょ電気治療の専門家を呼び寄せてハリを打ってもらった。その頃はまだハリ治療はほとんど普及していなかったのでイチかバチかのかけでしたが、おかげで何とか夜の鉄棒と床を演技することができた。当時の団体戦は6人出て上位5人の成績が採用される方式だったので最後のあん馬は棄権するつもりでしたが、私の前に演技した選手が尻もちをついてしまい、私も出ざるをえなくなった。2位との得点差ですでに優勝は間違いない状況でしたが、ぶざまな演技はできないので歯を食いしばって演技しました。今思い返してもつらくて大変な試合でしたが、優勝が決まった瞬間は最後までやり通した自分の気力を褒めてやりたいと思いましたね。あれがもし外国だったら棄権していたかもしれません。東京五輪だったからこそ最後まで頑張れたんだと思います。もっとも、当時は団体優勝に与えられる金メダルは6人で1個だけ。私の元に東京の金メダルはないんですけどもね。

 次の東京五輪ではもちろんたくさんのメダルを獲ってほしいと思いますが、これを機に地域スポーツクラブをもっと普及させることも大切です。日本のスポーツ活動は学校と実業団が中心ですが、海外では地域社会が中心なんです。自分たちでスポーツクラブを立ち上げ、それを地域の人たちが会員として支え、最後に国や自治体が支援する。例えばドイツでは人口8000万人に対し、9万カ所のスポーツクラブがあります。だから幅広い競技でメダルが獲れる。体操や柔道、レスリングなど特定種目にメダルが集中している日本とはそこが決定的に違うんですね。選手の強化や育成を国や一部の企業に依存するのではなく、地域の一人一人が支えるシステムを日本でも早くつくってほしい。それが私からの一番のお願いです。

 ◆小野 喬(おの・たかし) 1931年(昭6)7月26日、秋田県能代市生まれの85歳。東京教育大(現筑波大)3年の時にヘルシンキ五輪に出場し跳馬で銅メダル。56年メルボルンでは鉄棒で体操競技として日本人初の金メダルに輝いた。60年ローマは団体、鉄棒、跳馬で金メダルの他、銀1、銅2を獲得。64年東京では日本選手団の主将として開会式で選手宣誓を行い、団体2連覇に貢献。五輪4大会で金5、銀4、銅4のメダルを獲得。現在は日本マレットゴルフ協会代表理事。

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