挫折3度…村田の強さは、逃げても戻る“ずぶとさ”

[ 2012年8月13日 06:00 ]

試合終了の瞬間、ガッツポーズする村田

ロンドン五輪ボクシング男子ミドル級決勝 ○村田諒太 判定 E・ファルカン●

(8月11日 エクセル)
 始まりは、行き場のないエネルギーが言わせた思いつきだった。奈良・伏見中1年の春休み前、家庭の事情で不安定だった村田は突然、茶髪で登校した。担任の北出忠徳先生(47)にすぐに髪を染め直され「なんや!」とにらんだ。

 「何かしたいことないんけ」と言われ「勢いでボクシングぐらいならやったるわ!と答えた」という。すると、その週末に奈良工(現・奈良朱雀高)に連れて行かれた。

 後のWBA世界王者・名城信男が主将を務める名門。「馬かと思うぐらい」走らされて逃げ出した。中2の夏に思い直して頭を下げ、練習参加を頼むと、高見公明監督は「何しとんか」のひと言で受け入れてくれたという。

 ここでも村田は右足首のケガで、2カ月弱で挫折している。しかし、中3になる直前に再び「楽しかったな」と思った。奈良工にはさすがに行けず、自宅に近い大阪の進光ジムに入門。元日本王者の桑田弘トレーナーの元で1年間、練習した。

 村田は北京五輪出場を逃した08年にも「ミドル級では世界で通じない」と一度、引退している。3度やめて3度リングに戻った。諦めない強さでなく、逃げ出してもすぐに戻るずぶとさ、ボクシングとの縁の深さを物語るエピソードだ。

 男気もある。南京都高2年の時、新入部員の勧誘スパーリングで、後輩が巨漢の空手経験者にボコボコにされると、すかさずリングに上がってボコボコにした。「ボクシング部がなめられた」ことが我慢できなかった。

 09年の再起理由も元部員の不祥事で東洋大が活動を自粛したため、職員の自分が全日本選手権で優勝して東洋大の名を残すためだった。南京都高の恩師・武元監督の死後は母校に通い、ボクシング未経験の西井一監督代行を補佐してきた。

 ボクシングを通して懐の深い大人と出会いその恩に報いるだけの情熱と男気を村田は育てていった。

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