木幡家に特別な3・11 父初広揺るがぬ思い「また相馬野馬追に」

[ 2018年3月6日 05:30 ]

若い頃、相馬野馬追に甲冑姿で参加した自らの写真を手にする木幡初広
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 3月11日で東日本大震災から丸7年を迎える。木幡初広騎手(52)は福島県南相馬市原町区出身。実家は津波、原発事故による甚大な被害を受け、昨年ついに解体された。かつて自ら出場した伝統の馬行事・相馬野馬追、そして今も深く震災の爪痕が残る故郷に思いをはせた木幡騎手。自身と同じ現役騎手である長男・初也(22)、次男・巧也(21)、三男・育也(19)の3人の息子と共に、3・11は全力で被災者に寄り添う。

 鎧兜(よろいかぶと)に太刀を帯し、背には旗指物をつけたりりしい騎馬武者。またがった馬の顔や胸、尻には厚総(あつぶさ)と呼ばれる房飾り。長男・初也が生まれた23年前の夏、相馬野馬追に出場した自らの姿を見つめながら、木幡初広は変わり果てた故郷を思い起こした。

 「福島の実家を取り壊したと姉から連絡をもらったので、昨年暮れに見に行ったんです。実家の周辺は更地になって、何もなくなっていた」

 相馬野馬追で知られる南相馬市原町区にあった実家は、震災による津波の影響で北側を流れる太田川が氾濫して浸水した。福島第1原発から20キロ圏内だったため警戒区域に指定され、立ち入りも制限。主を失って劣化した住まいとともに故郷の風景は消えていた。小中学校時代に父の初身さんとともに預託馬の追い運動を続けた放牧場、家族総出で稲刈りをした1ヘクタールの水田…。

 「実家は当時、高崎や足利競馬に所属する10頭前後の競走馬を預かっていて、馴致(じゅんち)から育成、休養中の調教までやった。馬乗りも父に教わったんです。馬に使うワラも脱穀した後に家族みんなで乾かした」

 水田の蛭(ひる)にかまれながらの稲刈りや草刈りはつらかったが、年1度の相馬野馬追が木幡少年の目を輝かせた。

 「親父や馬術の国体代表選手だった姉(友子さん)と一緒に小学校1年から中学3年まで出場していた。実家から舞台となる雲雀ケ原(ひばりがはら)祭場地まで(約8キロ)馬に乗っていきました」

 3・11後の風景は飾り着けられた出場馬の上から見えた景色と一変していた。

 7年前の悪夢は脳裏から離れない。「とんでもないことになっているぞ」。震災当日、損傷が激しい中山競馬場の調整ルームには入れず、ガードマン室のテレビでニュース映像を見た。実家に電話をかけたが、翌日までつながらなかった。震災5日後、大型自動車免許をもっている木幡は知人から借りたマイクロバスのハンドルを握って、長男・初也とともに福島へ。実家から70キロ内陸部にある本宮市に避難していた両親と姉妹の家族、隣人ら14人を迎えに行った。

 「大渋滞で美浦の自宅に戻るまで往復15時間かかったかな。2、3週間は自分の家族5人と合わせて20人近くで暮らした。岡部幸雄さんら騎手仲間や知り合いが米など食料や日用品を送ってくれて…人の温かさを感じた」

 馬事公苑(東京都世田谷区)の騎手養成所に入るため福島を離れてから30年ぶりとなる両親との生活。長くは続かなかった。4カ月後の7月に父・初身さんを病で亡くした。母・久子さんは「父が亡くなった後に老いが来て」と南相馬市内の老人養護施設に入った。

 「でも、自分たちよりも被害が大きかった人や困っている人はたくさんいる。山側の放射能の高い地域に住んでいた姉妹の家族は自宅に戻れたが、今でも仮設住宅で暮らしている人は多い」

 相馬野馬追に出場した23年前の写真を再び見つめながら木幡はつぶやいた。

 「故郷はなくなってしまったが、乗り役をやめたら、また相馬野馬追に出たい」。

 ▽相馬野馬追 福島県相馬地方の伝統行事で毎年7月下旬に3日間にわたり開催。1000年以上の歴史があり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。ハイライトは2日目の甲冑(かっちゅう)競馬(約1000メートルのコースを騎馬武者姿で競う)と神旗争奪戦(2本の御神旗を取り合う)。震災前は600頭近くが参加しており、現在も430頭前後が出場。

 ◆木幡 初広(こわた・はつひろ)1965年(昭40)6月14日生まれ、福島県南相馬市出身の52歳。東京・世田谷の馬事公苑・騎手養成所を経て、84年、稲葉隆一厩舎所属でデビュー。JRA通算784勝(5日現在)。重賞は02年福島記念(ウインブレイズ)など8勝。JRA現役最年長騎手。

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