【日本ダービー】藤沢和師が初V!現役最多19頭目で悲願達成

[ 2017年5月29日 05:30 ]

日本ダービーを制したルメール(左)と藤沢和師は笑顔で抱き合う
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 藤沢和師は珍しく軽口も叩かず、静かに1着の脱鞍所の前にたたずんでいた。周囲には鹿戸師ら弟子たちの歓喜の輪。握手の手を差し伸べる記者たちには「馬券、取ったのか?」と穏やかに握り返した。88年の開業から足かけ30年目、現役最多となる19頭目の挑戦でつかんだダービートレーナーの称号。「いつかは勝てると思っていたが、随分と時間がかかった。みんなに感謝したい」。言葉少なにそう語ると、口を閉ざして遠くを見つめた。脳裏にはダービーへの長い道程、栄光と危険が背中合わせになったビッグタイトルとの格闘が去来するのだろう。

 「馬なり調教でいつかダービーを勝ちたい」と言ったのは30年前だった。初出走は開業2年目のロンドンボーイ。「勝てるかも」と色めき立ったが、22着大敗。栄冠に目がくらんで馬の体調を見極められなかった。ロンドンボーイはその年の夏でリタイア。「基礎が固まっていない若い馬に無理をさせれば駄目になってしまう」。自責の念がその後のダービーを遠ざける。

 90年代は外国産馬にクラシック出走資格が与えられていなかった時代。国内で自由に買えるサラブレッドのセリも少なかった。庭先取引でも若い調教師には良質な国産馬を売ってもらえない。やむなく外国産馬を増やした藤沢和厩舎に出番なし。「日本ダービーなんて内国産限定レースじゃないか」と毒づきながら、成長に合わせた馬づくりで古馬のタイトルを量産した。ダービーは12年間も出走ゼロ。痩せ我慢の美学である。

 再びダービーに手応えをつかんだのは01年、外国産馬のクラシック開放元年。せきを切ったように体力のある逸材を送り込む。02年に青葉賞を圧勝した米国生まれのシンボリクリスエス(2着)など4頭出し。だが、上手の手から水が漏るように栄冠をつかみ損ねた。「ダービーを勝つ馬は早い時期から鍛え込まれ、皐月賞からの王道を歩んでくる。3歳春になって良くなっても勝てないんだ」。2頭の青葉賞馬から得た苦い教訓。クリスエスやゼンノロブロイは早い時期に無理をさせなかったから古馬で大成した。ダービーの一勝より一生。「私だって勝ちたいが、競走生活のゴールではない」。ジレンマが続いた。

 「健康で走るのが大好きな馬だ。祖母レディブロンド譲りで賢くて気がいいからビシバシ稽古も要らない。そして…強い」。2歳の重賞も勝つほど完成されたレイデオロとの出合い。初制覇への長い道程の終着点だった。「またか!というほど負けて、迷惑を掛けたから1勝じゃ間に合わないかな」。笑顔には30年分の深いしわが刻まれていた。

 ◆藤沢 和雄(ふじさわ・かずお)1951年(昭26)9月22日生まれ、北海道出身の65歳。英国の名調教師プリチャード・ゴードン厩舎で厩務員として修業を積み、帰国後は中山競馬場の菊池一雄厩舎で調教助手に。野平祐二厩舎所属時代、シンボリルドルフの調教に携わる。87年に調教師免許を取得し、翌88年に厩舎開業。JRA賞最多勝利調教師を12回受賞。JRA通算1351勝(重賞101勝=うちG1・26勝)。

 ≪弟子の調教師が祝福≫▼鹿戸師 凄く強い競馬でついに勝った。定年まで残り4回のダービーも全て勝ってください。

 ▼古賀慎師 待ちに待った戴冠。日本のトップホースマンにふさわしい勝利です。

 ▼黒岩師 藤沢和先生の闘いはまだまだ続きます。(ダービー2勝目が懸かる)来年も張り切られると思います。

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