竹中功のナニワ新報

Vol.27 夏がくれば思い出す~後編

[ 2019年5月3日 20:35 ]

バクダッド公演「平和の祭典」の担当役員と菊水丸(左)
Photo By 提供写真

 河内音頭界を引っ張る男、河内家菊水丸をひょんなことからマネージメントをするようになり、「全国ネットのテレビや映画にも出たいなぁ」「NHK紅白歌合戦に出たいなぁ!」などとたわいないことを話し合っていた2人に「運」が向こうからやってきた。

 たまたまボクがアントニオ猪木さんと知り会う機会があった。なんばグランド花月でのプロレス興行の話が盛り上がり、トントンと実行にコマが進んだのだ。

 猪木さんに「花月の舞台の上でもプロレスは出来ますか?」と聞くと、猪木さんは「若い頃、アメリカで巡業している際、ホテルやシアターでプロレスをやることもありましたよ」ということで、リングを四方向から見るものではなく、一方向からだけ見る形式のものでもヨシということに。その後、なんばグランド花月での興行は開催され大盛況となった。

 当時のデータベースを引くと結果は

 ◆1990年7月29日なんばグランド花月大会

 ▽30分1本勝負 ○佐々木健介(11分55秒 パワーボム→エビ固め)●松田納
 ▽45分1本勝負 ○蝶野正洋(14分31秒 卍固め)●馳浩
 ▽45分1本勝負 ○武藤敬司&越中詩郎(12分36秒 ムーンサルトプレス→体固め)橋本真也&●飯塚孝之

 もちろんこの日の試合をアントニオ猪木や藤波辰巳もリングサイドで見つめていた。

 実は試合の前座で菊水丸は「新日本プロレス・スター列伝」という題目で、河内音頭に乗せて選手の紹介をリングの真ん中で歌ったのだ。相撲好きでもあったが、それに負けないほどプロレスが好きだった彼にとっては夢のような時間だったそうだ。

 ところが運命のいたずらである。その年の12月、アントニオ猪木の声がけでイラク・バグダッドでの「スポーツと平和の祭典」開催に向け、菊水丸への出演依頼が舞い込んできたのである。猪木いわく「日本にも変わった音楽があるもんだ。音楽に合わせて選手全員の紹介をしてくれるんだ。名前だけでなく、得意技なども盛り込んで」と話していた。

 我々一行は成田空港から、バンコク、ドバイ、アンマンと乗り継ぎ、バグダッド公演に向かうことになった。当時イラクのオリンピック委員会会長のサダム・フセインの息子、ウダイ・フセインが猪木のことを「モハメッド・アリとの死闘を繰り広げた男」という話をよく知っていたこともあり、猪木提唱の「スポーツと平和の祭典」が1990年12月2日から2日間、バグダッドで開催される運びとなった。

 初日はナショナルシアターでロックコンサートと日本の伝統芸能などを披露。2日目は長州力&マサ斉藤―馳浩&佐々木健介がメーンイベントのプロレス大会が開催された。この初日に菊水丸は河内音頭を披露した。

 その後、12月5日、イラクの在留外国人全員の解放が決定し、人質となっていた人たちは急きょ、猪木が連れて帰ることとなった。そしてその42日後に湾岸戦争が開戦されたのだ。

 その活動の後も、菊水丸の見聞を広げたい思いや海外からの誘いもあってソ連、北朝鮮、エジプト、ギリシャ、イタリア、チュニジア、フランス、キューバ、ガダルカナル、サハリン・北方四島、東ティモールなどと旅が続いた。イギリスではレコーディングに行った際、BBCからの出演依頼が来たものだ。

 またついに1992年12月31日の「第43回NHK紅白歌合戦」にもゲスト出演した。これも「出演したい!」と言う思いが強かったとは言えるのだが、現実はボクがあの手この手で「紅白の審査員の紹介を河内音頭でやりませんか?」というアイデアが生かされたのだ。先程の猪木もハマった「選手の紹介音頭」と同じ要領である。

 そう言うとバグダッド公演から5年が経ったある日、またもやアントニオ猪木さんから電話があった。「久しぶりです。スポーツと平和の祭典、北朝鮮公演を決めました。一緒に行きましょう!」またもや「相手の懐に入り込む」猪木イズムに誘われて我々は平壌公演に向かうことになった。

 世の中、先のことはなかなか予測がつかない。ただやらねばならない事をゆっくりでいいのでやり続けると、あとは何とかなるものだということを教えてもらったのがボクと菊水丸との経験である。もちろん、世の中、先が分からないから面白いのだが!

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