「松竹ヌーベルバーグ」の旗手 吉田喜重監督死去 89歳 妻・岡田茉莉子悲痛

[ 2022年12月9日 04:55 ]

吉田喜重さん
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 「松竹ヌーベルバーグ」の旗手として国内外で活躍した映画監督の吉田喜重(よしだ・よししげ)さんが8日午前8時33分、肺炎のため都内の病院で死去した。89歳。福井県出身。葬儀・告別式の日取りは未定で、近親者で執り行う。喪主は妻で女優の岡田茉莉子(おかだ・まりこ)。岡田と二人三脚で映画作りに奔走、海外にも知られた名監督だった。

 岡田は本紙の取材に「ただただ驚いております」と悲痛な心境を語った。この日朝、自宅で普段通り過ごしていたところ、突然倒れ、救急車を呼んだという。「2人でスポーツクラブにも行っていましたし体は元気だったもので…」と声を詰まらせた。

 「きじゅう」と音読みされることが多かった吉田監督。福井県立福井中学に入学した1945年8月に福井大空襲で家が焼失し、一家で東京に移住した。港区の都立城南中学(のち学制改革で高校)に転校し、フランス語を学ぶためアテネ・フランセにも通い、フランス映画をよく見ていた。

 吉田さんは高校時代から演劇に関心を抱き、51年に東大文学部仏文科に入学。卒業後の55年に松竹大船撮影所を受けて合格。4月に助監督となる。1年上に大島渚、山田洋次(91)、2年上に篠田正浩(91)らがいて、彼らの活動は後に松竹ヌーベルバーグと呼ばれた。

 藤原審爾の原作を映画化した62年の「秋津温泉」が監督契約の第1作で、男女の情念を描いて高く評価された。この作品でプロデュースも兼ねた岡田と2年後の64年6月に結婚した。松竹退社後の66年に現代映画社を設立。日本近代批判3部作と呼ばれる「エロス+虐殺」「煉獄エロイカ」「戒厳令」などを発表して話題を呼んだ。

 77年に東映で「BIG―1物語 王貞治」を手掛け、86年に三國連太郎さん、村瀬幸子さんらを起用して「人間の約束」を発表した。88年にはエミール・ブロンテの原作を中世日本に移して描いた「嵐が丘」を映画化。30年温めていた企画で、カンヌ映画祭のコンペティション部門に出品され、賛否両論を呼んだ。

 90年にはフランスのオペラ・ド・リヨンの依頼で「蝶々夫人」を演出。95年6月に国連創立50周年を祝うイベントとして米サンフランシスコでも上演された。

 02年に14年ぶりの監督作「鏡の女たち」を完成させ、特別招待作品としてカンヌ映画祭で上映された。原爆をテーマに、広島で被ばくした老女、失跡した娘と思われる記憶喪失の女、そして孫娘の3世代の女性がそれぞれの自我を取り戻そうとする姿を描いた意欲作で、妻の岡田とともにレッドカーペットを歩いた。

 08年にオムニバス映画「ウェルカム・トゥ・サンパウロ」に参加し、「ウエイトレス」という一編を提供。これが最後の映像の仕事となった。

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