喜多條忠さん 信ずるままに生きた「無頼の純真」、視力失う危機もやめなかった詩作

[ 2021年12月1日 05:30 ]

作詞家・喜多條忠さん死去

喜多條忠さん(2013年撮影)
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 【悼む 小西良太郎】2008年10月、僕らは「凍て鶴(いてづる)」という自信作を仕上げた。作詞喜多條忠、作曲三木たかし、編曲竜崎孝路、歌五木ひろしで、僕がプロデューサー。「平成の古賀メロディーだ!」と喜多條や五木が興奮した作品である。CDを急きょ翌11月に発売。五木にその翌月の「紅白歌合戦」で歌えないかと持ち掛けた。「絶対無理だよ、来年の紅白で」と言う五木に僕は小声で「三木はそこまでもたない」と告げた。

 三木の病気は重篤だった。五木はNHKとの困難な話し合いで、実現にこぎつける。大みそか、五木の熱唱をテレビで見て、三木も喜多條も泣いた。三木は翌年5月に亡くなり、その年、五木は紅白でもう一度「凍て鶴」を歌った。喜多條はその後しばしば五木の“男気”を話した。彼もまた“男気”に厚い男なのだ。

 「凍て鶴」から5年ほど前、僕は喜多條に会い、ボートレース三昧から作詞界に戻る提案をした。「なぜ?」と問う彼に「詞にある文学性が得難い」と答え「長いブランクで大丈夫かな?」と案じる彼に「その分、賞味期限が来ていない」と言って2人で大笑いした。復帰した喜多條は、演歌・歌謡曲系の作詞家として再ブレーク、その実績と人望から日本作詩家協会の会長にも就任する。

 「神田川」「赤ちょうちん」でフォーク系の歌書きになった喜多條が、梓みちよ「メランコリー」、キャンディーズ「やさしい悪魔」などに守備範囲を広げたころを第1期とすれば、「凍て鶴」以降はいわば活躍の第2期。団塊の世代に属し、大学時代は70年安保闘争のデモに参加。中退後は実に雑多な職業を転々、文化放送に“住み込み”状態の放送作家時代に南こうせつと出会ったのが、この世界へのきっかけだった。

 闊達(かったつ)な語り口でよく語り、よく飲み、ヘボだったゴルフは骨を痛めるほどの猛稽古でみるみる上達した。俳優の遠藤憲一に似ていると言われるとまんざらでもない苦笑いを見せる。仕事に根ざしたのは信ずるままに生きた「無頼の純真」、ボートレース場めぐりが軸の「放浪の旅の孤独」、血の熱さがにじむ「詩人の繊細」と「仕事師の剛腕」だったろうか。

 ここ3年、喜多條と作曲家杉本眞人と僕は秋元順子の歌作りをしていた。闘病はそのうち2年余で、一時肺がんが脳に転移、視力を失う危機もあったが、詩作はやめなかった。秋元の「なぎさ橋から」が好評につき再制作。喜多條の希望に沿おうとする矢先の最期である。親友と歌作りの相棒を失った無念が重い。=敬称略=(スポニチOB、音楽評論家)

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