人間国宝 柳家小三治さん永眠、81歳 2日に高座も急な幕引き 棺に好物のチョコ

[ 2021年10月11日 05:30 ]

落語家の柳家小三治さん
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 人間国宝の落語家、十代目柳家小三治(やなぎや・こさんじ、本名郡山剛蔵=こおりやま・たけぞう)さんが7日午後8時、心不全のため都内の自宅で死去した。81歳。東京都出身。故人の遺志により、葬儀は近親者のみで営まれた。喪主は長男郡山尋嗣(ひろつぐ)さん。お別れの会は行われない。法名は「昇道院釋剛優(しょうどういんしゃくごうゆう)」。柳家のお家芸である滑稽噺(ばなし)の継承者として活躍、導入部の長いまくらでも人気を集めた。

 ひょうひょうとした表情、一見ぶっきらぼうにも思えるしゃべり口が味わい深かった小三治さん。現代最高峰の名人が静かに高座人生に幕を引いた。

 所属事務所代表の倉田美紀さん(42)によると、亡くなった7日も都内の自宅で普段通りに弟子と朝ご飯を食べ、午前中は歯科医院に通院。夕方に風呂に入り、変わった様子もなく過ごしていた。だが、午後7時半ごろに妻の和世さんが2階にある小三治さんの自室に行くと、床に倒れているのを発見。既に息をしていない状態だった。連絡を受けた次女で文学座の女優郡山冬果(50)が119番通報し、搬送先の病院で死亡が確認された。倉田さんは「凄く穏やかな表情で、幸せそうな顔に見えました」と語った。

 6日も5、6人の弟子を自宅に招き、雑談するなどして過ごした。それだけに家族や弟子のショックは大きい様子。亡くなる当日まで次の高座を楽しみにしていたといい、来年まで高座の予定も決まっていた。最後の高座は今月2日、東京・府中の森芸術劇場での「猫の皿」だった。

 今年3月に「最近疲れやすいし、食欲が落ちた」と訴えて病院で検査。持病のリウマチと糖尿病に関する数値が悪化していたため、3週間ほど入院した。5月に復帰すると、コロナ禍の中でも独演会や一門会を精力的に開催。「私に頂ける拍手を今日は医療従事者のために送ってください」と訴えるなど、連帯を呼び掛けていた。

 小学校の校長だった厳格な父への反発もあって幼少時から遊芸に興味を抱いた。都立青山高校在学中には、ラジオ東京(現TBS)の「しろうと寄席」で15回連続合格を果たした。大学受験に失敗したのを機にプロの落語家を志し、1959年3月に五代目柳家小さんさんに入門。前座名「小たけ」をもらった。

 63年4月に二ツ目に昇進し、「さん治」に改名。69年9月に17人抜きの抜てきで真打ちに昇進、十代目柳家小三治を襲名した。テレビ出演はほとんどせず、活動の中心は独演会や寄席。兄弟子の立川談志さんとともに高い人気を誇り、チケットの取れない落語家の一人として知られた。

 柳家に伝わる滑稽噺をレパートリーとするが、あざとく笑わせることを嫌い、思わずクスッとさせる笑いを追い求め続けた。古今亭志ん朝さんや談志さんの他界後は現代落語界の頂点に君臨する孤高の名人と言われた。

 「死神」「大工調べ」「芝浜」「初天神」「時そば」「子別れ」などレパートリーは広く、まくらの面白さはピカイチ。時にはまくらだけで高座を終えることもあった。「まくらの小三治」と呼ばれ、まくらを集めた本も出版された。

 2014年に落語界3人目の人間国宝(重要無形文化財保持者)に認定。また、落語協会の会長を10年から2期4年務めた。実力主義を打ち出し、落語界の活性化にも力を注いだ。

 ◇柳家 小三治(やなぎや・こさんじ)本名郡山剛蔵(こおりやま・たけぞう)。1939年(昭14)12月17日生まれ、東京都出身。高校卒業後の59年に五代目柳家小さんさんに入門。69年に真打ち昇進、十代目柳家小三治を襲名。2010年に落語協会会長に就任し、14年まで務めた。05年紫綬褒章、14年旭日小綬章。15年に毎日芸術賞を受賞。

 《師匠にもらった帯締め荼毘に》棺には好物だったフィンランドのチョコレートや手ぬぐいが納められた。小三治さんは人間国宝に認定された際に落語協会から贈られた着物を着て、師匠の小さんさんにもらった帯を締めて、荼毘(だび)に付された。

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