中村雅俊は伝え続ける“2度の経験”を「地震来たら津波が来る」チリ地震そして東日本大震災

[ 2021年3月5日 05:30 ]

東日本大震災から10年――忘れない そして未来へ(5)

被災者への思いを語った中村雅俊
Photo By 提供写真

 被災地ゆかりの人たちが「3・11」の生々しい記憶とその後の10年を振り返りながら、復興へのエールを送るインタビュー企画「忘れない そして未来へ」。第5回は宮城県女川町出身で、いとこ3人を津波で亡くした俳優で歌手の中村雅俊(70)です。

 あの日は都内でフジテレビのドラマ「ショートピース」のロケを行っていた。電車の中での撮影で駅に停車中だった。ガンガンと音を立て激しく横に揺れたが閉じ込められることはなく、収まった後で情報を確かめた。

 「震源地が東北、しかも故郷女川の近くだと知り、地震の大きさからして津波が来るだろうと予測した。想像を絶する大きさにがく然とした」

 いとこ3人が巨大津波で亡くなった。1人は母親の妹の長男で、中村の2つ年下。幼少期に兄弟のように遊んだだけにショックは大きかった。町は3000棟以上が全半壊。4月14日に帰郷すると「がれきだらけで爪痕が残ったままだった」と実家も流され、故郷は変わり果てた姿になっていた。

 最大14・8メートルの津波など想像もつかなかった。1960年、小学生の中村はチリ地震による津波で被災。早朝、町内放送のサイレンで起こされ「裏山に家族で走って逃げた。山の上から津波を見たが、ゆっくり水かさが増す感じで町に津波が襲ってきた」。引き波で女川湾の海底が見えた後に津波が押し寄せ、自宅1階の天井までが海水に漬かった。

 18歳で上京するまで、津波警報を10回以上経験した。しかし、チリ地震の経験から、警報が出るたびに1階の家具や荷物を2階に運び移し、警報が解除されるまで2階で待機するにとどめていた。「当時は2階までは来ないだろうという考えだった。今考えれば甘い考えだった」

 東日本大震災の直後は避難所で歌うなどして被災者と触れ合い、13年からは報道番組のキャスターとして東北各地を回った。同年には、震災後に2つの小学校が統合して誕生した宮城県東松島市の鳴瀬桜華小学校の校歌も作曲(作詞松井五郎)。1月にも震災関連番組で女川町を訪れた。

 10年間を振り返って「少しずつだが、みんなの笑顔が増えてきたと思う」と実感している。今後重要なのは心の復興だ。先月13日には福島県沖で最大震度6強の地震が発生。「10年前を思い出し、不安に思った人も多かったはず。これからは心のケアが重要だと思う」と力を込める。

 あの日、50年前のチリ地震をはるかにしのぐ大津波に経験は生かされなかった。では未来へ向けてどうすべきか。「震災のことを忘れてほしくない。こうやって話すことで役に立つこともあると思う」。伝えていくことが復興にもつながると信じている。 (飯尾 史彦)

 ◆中村 雅俊(なかむら・まさとし)1951年(昭26)2月1日生まれ、宮城県出身の70歳。慶大卒業後に文学座に入団。74年、日本テレビ「太陽にほえろ!」でデビュー。同年の同局「われら青春!」に主演してブレークし、自身で歌った挿入歌「ふれあい」もミリオンヒットした。東北楽天ゴールデンイーグルスのファンクラブ名誉会員でもある。1メートル82。血液型O。

続きを表示

この記事のフォト

「美脚」特集記事

「嵐」特集記事

2021年3月5日のニュース