作曲家・筒美京平さん死去…昭和歌謡の黄金期に君臨した「ヒット請負人」総売り上げ7560万枚

[ 2020年10月13日 05:30 ]

筒美京平さん
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 「また逢う日まで」「魅せられて」など数々のヒットを生んだ昭和を代表する作曲家の筒美京平(つつみ・きょうへい、本名渡辺栄吉=わたなべ・えいきち)さんが7日午後3時、誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の自宅で死去した。80歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。喪主は妻善子(よしこ)さん。歴代1位の作曲シングル総売り上げ約7560万枚を誇る希代のヒットメーカー。突然の悲報に芸能界から追悼の声が相次いだ。

 積み上げた売り上げ枚数は、戦後を代表する作曲家の故吉田正さん、CDバブル時代に君臨した小室哲哉氏(61)も届かない別次元の数字。手掛けた楽曲は約3000曲。日本歌謡史に多大な足跡を残した天才が旅立った。

 華やかな経歴の一方で裏方に徹した。生来の照れ屋も手伝い、生前はマスコミの前に出ることを控えた。音楽関係者は「亡くなる時もほとんど周囲に知らせることなく旅立った」。お別れの会を行う予定もない。

 親しい関係者によると、運動障害を引き起こす神経疾患のパーキンソン病を患い、ここ3年ほど病状が悪化していた。最近は病気の影響で心臓の筋肉も衰え、発作をたびたび起こしたため「自宅と病院を行ったり来たりするような状態だった」(同関係者)。元々細身だったが亡くなる前の体重は20キロ台まで減っていたという。

 69年にいしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」で初めてオリコン1位を獲得して以来、39作が1位に。60年代から2010年代まで、6年代連続で楽曲がオリコンベスト10入りした偉業は前人未到。金字塔の数々はヒットにこだわり抜く姿勢が生んだものだ。

 デビュー当時、著名なディレクターに「君はメロディーが弱い」と指摘され、それを補うため洋楽のエッセンスを導入。編曲まで計算に入れた、独特の華やかな曲作りを目指した。全盛期は行きつけのレコード店の洋楽コーナーに、筒美さんが購入するための専用棚があり、最新の流行曲を全て聴いていた。

 独特の作風は「カツ丼」といわれた。西洋料理から生まれた日本代表の味。洋楽の風味をただ取り込むだけでなく、日本人好みに仕立てることにこだわった。いくら高度な曲でも売れなければ失敗作。「それが僕の職業。心に染みる歌を書きたいと思ったことはない」と言ってのけたほどだ。

 芸能事務所やレコード会社がここぞで頼る「ヒット請負人」。特に才能を絶賛したのが、ジャニーズ事務所の故ジャニー喜多川前社長だった。郷ひろみ(64)の「男の子女の子」では故岩谷時子氏、近藤真彦(56)の「スニーカーぶる~す」では、ゴールデンコンビと名高かった松本隆氏と、名作詞家とのタッグで勝負。見事デビューを大ヒットで飾った。その後も少年隊「仮面舞踏会」など重要な曲を依頼。「勝負時は必ず筒美さんだった」(関係者)と、その神通力を振り返る。

 百発百中を求められる、並大抵でない重圧と闘い続けた人生。関係者は「後進への影響力も含めて、まさにプロの作曲家を極めた人だった」と悼んだ。

 ◆筒美 京平(つつみ・きょうへい)本名渡辺栄吉(わたなべ・えいきち)。1940年(昭15)5月28日生まれ。東京都出身。青学大卒業後の63年にレコード会社「日本グラモフォン」に入社、洋楽ディレクターに。在職中すぎやまこういち氏に師事し、66年藤浩一(現・子門真人)らの競作「黄色いレモン」で作曲家デビュー。ペンネームは鼓(つづみ)が平らに響くという意味で、漢字は「筒美京平」と左右対称にした。03年に紫綬褒章受章。

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