hideさんとの最後のインタビュー 伝えたかった「トベる場所はまだまだ有るんだ」

[ 2020年5月1日 09:00 ]

「HIDE」としてX JAPAN解散公演で熱演したhideさん(1997年12月31日、東京ドーム)
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 【元芸能デスクの取材ノート】1998年2月20日。米国で音楽製作中のロック界のカリスマから、当時は珍しかったインターネット上での「オンライン・インタビュー」を相談された。提案者はX JAPANのhideさん。当初は国際電話での取材をこちらから要望したところ、「インターネットで、やりとりするのはどう?」と持ちかけてきた。

 NTTドコモが、携帯電話を使った「iモード」サービスを開始する1年ほど前のこと。電子メールがまだ広く浸透していなかった時代に、hideさんは既にITを積極的に活用。チャットでの一問一答を提案してくる先見性に改めて驚かされた。スポニチは記事の執筆が、用紙への手書きからワープロに移行した頃で、個人パソコンが会社から配られたのは、その数年後。結局こちらの装備の不足により、FAXでの古典的なやりとりとなってしまった。

 X JAPANの解散から51日目。箇条書きの質問状を送信すると、2日後には回答を返信してくれた。それまで何度も会ってはいたが、文書でのやりとりは初めて。ていねいな言葉遣いに、冷静で真摯(しんし)な性格が表れていた。

 特別な年だった。元日にはhide with Spread Beaverとして新曲「ROCKET DIVE」を27日後にリリースすることを新聞広告で告知。この前日の97年大みそかは、東京ドーム公演とNHK紅白歌合戦でX JAPANに幕を引いた。一夜明けても複雑な気持ちのXファンが多い中、間髪入れずにメッセージを発信。それだけでも再出発への熱い思いが伝わってきた。

 この曲について「回答書」では、こう解説してくれた。

 <曲自体は、前回のセカンドアルバムでお蔵にした楽曲です。その時期にはシンプルすぎて、アルバムにはもれましたが、1997年の秋口に再び聴いて惚れ直しまして、歌詞を書き始めました。
 以前は英語詩が付いていたのですが、X JAPANの解散会見の時期とシンクしたりと、自分的にも複雑な精神状態だったので、こういったポジティブな詩を求めていた気はします。 そういう事もあり、No Exitな少年時代の「何処か、自分のトビ込む場所」を探している、感じを歌いたかったのと、依存してくれたX JAPANのファンに対してもトベる場所はまだまだ有るんだ、という事をつたえたかった、という事です>

 96年9月発売のソロアルバム「PSYENCE」には収録しなかった曲も、1年経って聞き直すとイメージが違ったという。97年9月といえば、Toshiをのぞく4人で臨んだX JAPAN解散会見。この頃の心境も歌詞には重なっているとの説明だった。

 何よりも、X JAPANファンにとって「トベ」は大きな意味を持つ。毎回ライブのラストナンバーは「X」で、観客が両手をクロスさせながら「エックス!」の掛け声とともに飛ぶ「Xジャンプ」は恒例。hideさんは必ず「トベ、トベ…トベ!」と何度も呼び掛けてファンをあおった。だからこそ解散後の「トベ」には強いメッセージを感じさせた。

 「回答書」は、この1問目のコメントだけでも多くのエピソードが明かされており、スポーツ紙的には「見出しどころ」満載。別の質問にも、98年の活動に関する具体的な予定やプランを多数紹介してくれた。アイデアも創作意欲も全身からあふれ出している感じだった。そして、こう結んでいる。

 <今年はとりつかれた様に活動したいと思います。ライブに関しては世界一のロックショーをご覧にいれられると思いますので、遊びにいらしてください>

 だが、何度もインタビューに応じてくれたhideさんからの最後の返答となってしまった。

 悲報に接したのは5月2日午後3時ごろ。この6時間ほど前に搬送先の病院で死亡が確認されたとする警視庁の発表を伝え聞いた。取材を進めても、側近を含めスタッフ全員から出てくる言葉は「信じらない」。こちらも気持ちは同じだった。

 最後のインタビューのメモを今、改めて見返しても、信じられない思いは膨らむばかりだ。hideさんにとって98年は5月以降も作品のリリースが波状に予定され、hide with Spread Beaverとzilchの二つのバンドでの活動が控えていた。ライブを含め、休む間もないほどの充実ぶりに見えたのだ。

 XではYOSHIKIとToshiの幼なじみコンビに挟まれながら、独特の存在感を示した。実際に会うと、ステージ上でのド派手なイメージはなく、紳士的でフレンドリー。冷静さとは対照的に、好きなものについて語る言葉は熱かった。音楽やアートに対してはリスペクトと造形が深く、フレーズや言葉、ファッションの細部に渡って強烈なこだわりを感じさせた。

 生きていたら55歳。期せずして「オンライン」の生活を余儀なくされている人が多い中、どんな行動を示してくれただろうか…。5月2日の命日には23回忌を迎える。 (専門委員 山崎智彦)

◇山崎 智彦(やまざき・ともひこ) 1990年入社。ジャニーズ事務所やビジュアル系ロック、演歌など幅広く音楽界を取材。マドンナ、マライア・キャリーら海外スターへのインタビュー経験も豊富。文化社会部デスク、静岡支局長を経て19年から編集局デジタル編集部専門委員。

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2020年5月1日のニュース