歌丸さん 終演 体重35キロ 鼻にチューブしても「私は噺家 苦しくても高座に上がらないといけない」

[ 2018年7月3日 05:30 ]

亡くなった落語家の桂歌丸さん
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 日本テレビの演芸番組「笑点」に50年間レギュラー出演し、国民的人気を誇った落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、慢性閉塞性肺疾患のため横浜市内の病院で死去した。81歳。横浜市出身。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主は妻の椎名冨士子(しいな・ふじこ)さん。落語を身近に感じさせてくれた功労者で、落語芸術協会の会長として後進の育成にも力を入れた。

誤えん性肺炎や腸閉塞などで入退院を繰り返しながらも、不死鳥のように高座に戻ってきた歌丸さんが、ついに力尽きた。4月19日の東京・国立演芸場で「小間物屋政談」を熱演したのが最後の高座となった。ミニ番組「もう笑点」用の収録も4月中に済ませており、1日の放送でも元気な姿を見せていた。

 若い頃から1日60〜80本も紫煙をくゆらすヘビースモーカーだった。2009年に肺炎を患い、「こんな苦しい思いをするなら」と禁煙生活に入ったが、長年の喫煙の影響か、近年は肺炎などで闘病生活が続いた。

 それでも歌丸さんは復帰にこだわった。酸素吸入器の助けを借り、文字通り命を削るように高座を務めたが体力が低下。体重は35キロにまで落ち、せきをすれば肋骨が折れてしまうほどだった。

 関係者によれば、体調不良を訴えて4月24日に入院。同29日に医師が看病の家族や弟子たちに「親しい人に来てもらってください」と告げ、笑点の後輩である六代目三遊亭円楽(68)や三遊亭小遊三(71)も駆けつけた。翌30日には「持ってあと4日ほど」と医師から宣告されたが、奇跡的に持ち直した。

 5月上旬に軽い肺炎で再入院。6月15日の横浜にぎわい座「日本演芸家連合まつり」は休演したが、同30日までは「弟子が見舞いに来ない」と軽口を叩くほど元気だった。ところが1日に容体が急変。冨士子夫人(85)と息子2人、弟子4人にみとられて眠るように息を引き取った。

 15歳で五代目古今亭今輔に入門。61年に兄弟子の桂米丸(93)門下に移り、米坊として出直した。64年に歌丸と改名し、68年に真打ちに昇進した。二つ目時代の65年3月から日本テレビ「金曜夜席」に出演して才能を発揮。66年に始まった後番組「笑点」にも引き続き登板し、一時抜けた時期もあったが、三遊亭小円遊さん(80年死去)や五代目三遊亭円楽さん(09年死去)との掛け合いが茶の間の人気を呼んだ。06年には円楽さんに代わって5代目司会者を16年まで務め、長寿番組を支えた。

 その一方、「大喜利の歌丸では終わりたくない」と、やり手が少なくなった噺(はなし)の掘り起こしを精力的に行った。江戸時代末期から明治にかけて活躍した三遊亭円朝の「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」といった続き物への取り組みはライフワークだった。

 晩年は、酸素ボンベを手放せず、鼻にチューブを入れたままの高座には鬼気迫るものがあった。歌丸さんは「生きるのは苦しいものです。私は噺家。だから苦しくても高座に上がらないといけないんです」と哲学を披露。その生きざまは小遊三や春風亭昇太(58)ら後輩たちに確かに伝わっている。「おあとがよろしいようで」…歌丸さんは静かに落語家人生に幕を引いた。

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