和洋折衷の平尾節「私の城下町」など新しい歌謡曲…原点に家族の存在

[ 2017年7月23日 08:00 ]

作曲家・平尾昌晃さん死去

98年6月、平尾昌晃さんの音楽生活40周年パーティーで小柳ルミ子と
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 平尾昌晃さんは歌謡曲にポップスの要素を取り入れ、日本の風景が思い浮かぶ名曲を数多く残した。その根底にあるのは“和洋折衷”の精神。代表的なのが小柳ルミ子(65)の「わたしの城下町」(71年)。当時の最先端にいた作詞家、安井かずみさんとの共作で、日本的な詞やメロディーに洋楽のリズムを合わせることでミリオンヒットとなった。

 新人だった畑中葉子(58)とは横文字をサビに使ったデュエット曲「カナダからの手紙」(78年)で昭和歌謡史に残る大ヒットを記録。その後も水谷豊(65)の「カリフォルニア・コネクション」(79年)などを送り出している。

 原点にあるのは家族の存在だ。父親が化粧品会社を経営しており、戦後すぐに、自宅に米軍将校らを呼んでダンスパーティーを開催することもあった。平尾さん以外のきょうだいはフルートやピアノなど楽器を習熟。叔父はクラシック作曲家として有名な平尾貴四男氏で、父親は歌舞伎の三味線音楽である「長唄」や「清元」をたしなんでおり、その環境が平尾さんを育てた。最初は音楽に興味がなかったが、小3の時に将校からジャズのアルバムをもらったことで興味を覚え、「高校に入学した頃にはエルビス・プレスリーにしびれた」という。

 和洋折衷の精神は、「何でも面白いことは取り込んで生かす」というマルチな才能にもつながっている。作曲家としての顔を持ちながら、テレビではNHK「レッツゴーヤング」での司会や俳優としても活躍。複数の会社を経営するなど社長業もこなした。

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