船村徹さん逝く…作曲家生活64年 女王・ひばりさんと認め合った

[ 2017年2月18日 05:30 ]

「みだれ髪」をレコーディングする美空ひばりさんと船村徹さん(87年10月撮影)
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 「別れの一本杉」「王将」など日本歌謡史に残る名曲を多数残し、昨年文化勲章を受章した作曲家の船村徹(ふなむら・とおる、本名福田博郎=ふくだ・ひろお)さんが16日午後0時35分、心不全のため死去した。84歳。栃木県出身。昨年5月に心臓弁置換手術を受け、神奈川県藤沢市の自宅で療養していた。弟子の北島三郎(80)はこの日、遺体に対面。「悔しくて悲しくて寂しい」と悼んだ。

 元歌手で妻の福田佳子さん(78)によると、死去前日の夜には好物のカレーうどんを大盛りで平らげ、16日朝まで元気だった。同午前11時ごろ、長男の作曲家蔦将包(まさかね)さん(54)の妻さゆりさんが船村さんの部屋を見に行くと、ベッドの隅に寄りかかるようにうずくまっており、市内の病院に搬送された。遺体は死因を特定するための解剖を終え、17日正午ごろ、病院から自宅に戻った。

 船村さんは15年の年末ごろから息苦しさを覚えるようになり、昨年5月に8時間に及ぶ開胸手術を受けた。栃木県の仕事場「楽想館」から藤沢市の自宅に生活の拠点を移し訪問診療を受ける傍ら、定期的な検査通院をし、週2回のリハビリに励んでいた。

 先月18日に都内で行われた文化勲章受章を祝う会で元気な姿を見せたばかりだった。仕事への情熱も衰えず、これまで使っていた五線紙の線が「細くて見えない」と太い線のものを注文。17日に自宅に届いたところだった。

 日本が戦後の復興へ歩む53年に作曲家に。音楽学校で巡り合った2歳上の盟友の作詞家・故高野公男さん(享年26)と組んだ。「アメリカかぶれじゃ駄目。いま働いている日本の民衆のための歌を作るんだ」という高野さんに感銘を受け流行歌の道へ。「先輩の作風や定型をぶち壊す。俺は茨城弁で詞を書く。おまえは栃木弁で作曲しろ」という高野さんの言葉を指針に、古賀政男氏や服部良一氏ら従来の人気作曲家とはひと味違う、日本人の情感に訴えかける作風を確立した。

 56年に高野さんが病死した後も遺志を継ぎ、毎年、誕生日の6月12日には、日の目を見なかった曲に感謝するとともに、高野さんをしのぶ「歌供養」を開催。2人で書いた「男の友情」という曲を生涯大切にした。高野さんが死去した9月8日は毎年欠かさず、茨城県笠間市の墓前を訪れた。

 55年、春日八郎さんの「別れの一本杉」が最初の大ヒット。上京する男の田舎との別れが題材で、高度経済成長の中、地方からの集団就職が活発になった時代にはまった。57年の島倉千代子さんの「東京だョおっ母さん」は映画化されるブームに。61年にはロカビリーブームの真っただ中、村田英雄さんの「王将」が日本初のミリオンセラーになった。

 「歌謡界の女王」美空ひばりさんとは実力を認め合った仲。87年「みだれ髪」は「大腿骨頭壊死(えし)」から復帰する際の曲に選ばれた。門下生の北島には、80年「風雪ながれ旅」など多数の曲を提供し、演歌界の王様と言われるまでに育て上げた。

 ◆船村 徹(ふなむら・とおる)本名福田博郎(ふくだ・ひろお)。1932年(昭7)6月12日、栃木県生まれ。東洋音楽学校(現東京音大)卒業。83年に細川たかし「矢切の渡し」、91年に北島三郎「北の大地」で日本レコード大賞を受賞。日本作曲家協会会長、日本音楽著作権協会(JASRAC)会長などを歴任し、95年に紫綬褒章、03年に旭日中綬章を受章。15年には栃木県日光市に「船村徹記念館」が開設された。

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