湯川れい子さんのすてきな人生!知り合えてとても光栄です

[ 2016年11月5日 10:10 ]

湯川れい子さん

 【川田一美津の何を今さら】会社に数枚の笑顔の写真が届いた。今年で音楽評論家55年、作詞家として50年を迎えた湯川れい子さんからだ。6月に都内のホテルで行われた、そのお祝いの席で一緒に撮影した記念のショット。その1カ月間、タイミングよく本紙芸能面の「我が道」で、ご自身の波乱に満ちた素晴らしい半生を振り返ってもらった。ちょうどビートルズ来日から50年。彼らとの出会い、紆余曲折の単独インタビューの顛末など楽しい話が続いた。

 湯川さんの生き方はとにかく凄い。今、ようやく女性の活躍が声高に叫ばれるようになったが、まさにそのパイオニアだ。恋人に影響され好きになったジャズ。雑誌に投稿したジャズ評論が認められてからは、まさに猪突猛進。自らの道を自分の力で切り開いていった。

 東京五輪直後、海外渡航が現代のように簡単ではなかった時代。借金して本場ニューヨークへ乗り込んだ。カタコトの英語で大物アーティストに体当たり取材。当時、日本人旅行者もまだ珍しかったが、ましてや若い女性1人。円滑に仕事を進めるため、終始、愛想よく振る舞っていたら、高名なプロデューサーが勘違いして宿泊先のホテルへ押しかけて来たこともあったとか。

 楽しいこともあれば、もちろん、辛いこともあった。しかし、「どんな仕事でも依頼があれば断らなかったわよ。無理だと思ってもやってみないと出来るかどうかわからない。最初からあきらめてやらなかったら、自分で自分の可能性を摘むことになる」。そんなチャレンジ精神は今でも変わらないようだ。それがこの人の信念、成功の秘訣なのだろう。その言葉にパワーをもらったような気がした。あれ以来、こちらも見習わねばと常に思っている。

 エルヴィス・プレスリー、オノ・ヨーコ、シンディ・ローパーら多くの世界的なスターと親交が深いことでも有名。ジョン・レノンと子育ての談議をしたというのも驚きだ。「涙の太陽」「ランナウェイ」など数々のヒット曲を世に出した。作詞に苦労したのは、「恋におちて」。なかなか詩のイメージが浮かばなかったが、そのヒントが深夜、自宅の書斎から見たマンションのあかりにあったとは。すべての話が興味深く勉強になるものばかりだった。

 それにしてもだ。「我が道」の打ち合わせで見せていただいた青春時代の湯川さんの写真はとってもチャーミング。思わず「もし私がこの時、出会っていれば絶対に好きになってましたよ」と告白しそうになったが、思わず言葉を飲み込んだ。この気持ちは今でも変わってない。実はひそかにまた仕事でお目にかかれる日を楽しみにしている。あぁ、なんだかラブレターみたい!?でも、たまにはいいか。こんなコラムがあっても。(専門委員)

 ◆川田 一美津(かわだ・かずみつ)立大卒、日大大学院修士課程修了。1986年入社。歌舞伎俳優中村勘三郎さんの「十八代勘三郎」(小学館刊)の企画構成を手がけた。「平成の水戸黄門」こと元衆院副議長、通産大臣の渡部恒三氏の「耳障りなことを言う勇気」(青志社刊)をプロデュース。現在は、本紙社会面の「美輪の色メガネ」(毎月第1週目土曜日)を担当。美輪明宏の取材はすでに10年以上続いている。

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