石原裕次郎さん名番頭「コマサ」こと小林正彦氏急死

[ 2016年11月3日 05:30 ]

死去したことがわかった小林正彦氏

 故石原裕次郎さんを支えた石原プロモーションの元専務、小林正彦さんが10月30日朝、虚血性心不全のため都内の病院で死去した。80歳。三重県出身。葬儀は近親者で行った。小林さんは石原プロを設立した裕次郎さんの右腕として会社を背負い、70年代に多額の負債を背負い倒産の危機にあった石原プロを立て直しただけでなく、「西部警察」をはじめとする人気テレビシリーズで同社を再建した。

 「コマサ」の愛称で知られ、裕次郎さんのファンからも慕われた名物番頭が裕次郎さんの元へ旅立った。

 小林さんは10月30日午前8時すぎ、都内の外出先で突然体調を崩し、倒れた。救急車で病院へ搬送されたが亡くなった。

 出会いは裕次郎さんが所属していた日活の撮影所に勤務していた59年だった。バイタリティーあふれる仕事ぶりが裕次郎さんの目に留まり、65年に石原プロに入社した。

 70年公開の映画「ある兵士の賭け」の興行的失敗で経営状況が極めて深刻となった石原プロを立て直したのも功績。裕次郎さんが72年に「太陽にほえろ!」で、それまで軽視していたテレビドラマを制作。小林さんはその成功をヒントに、テレビ界への本格的進出を裕次郎さんに提言した。

 「大都会」「西部警察」など制作したドラマを、広告会社を通さずに直接テレビ局にセールスする道筋をつけたり、世間の注目を集める「西部警察」の大掛かりなアクションシーンなどのプロモーション力で石原プロを再建。80年代には30億円相当の資産を持つ会社に急成長させた。当時を知る関係者は「裕次郎さんの広くて深い人脈をとてもうまく使うことができたのが、彼の才覚」と話している。

 84年に裕次郎さんが肝臓がんを患ったときは兄の石原慎太郎元都知事が告知を望んだにもかかわらず断固拒否。その理由を「裕次郎さんは死ぬのが分かっていた。それなら最後まで石原裕次郎でいてほしかった」と周囲に語り、スターとしての裕次郎さんを守り抜いた。

 最後の大仕事は09年7月5日の裕次郎さんの二十三回忌。国立競技場内に、裕次郎さんが眠る横浜・総持寺の本堂を再現し、12万人のファンを呼び込む一大イベントを執り行って日本中を驚かせた。

 その1年8カ月後の11年3月、全てをやり遂げたかのように健康上の理由から専務を退任。そして、人生の全てをささげた裕次郎さんが立ち上げた石原プロから退社した。

 ◆小林 正彦(こばやし・まさひこ)1936年(昭11)1月1日、三重県生まれ。日活ホテルのホテルマン時代、バーでただ飲みした外国人プロレスラーをねじ伏せたことがきっかけで日活撮影所へ異動。裕次郎さんと出会い、65年に石原プロへ入社。11年3月に健康上の理由で退社した。愛称「コマサ」。

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